PC=身体

リモートで会議してるときに、自分の声とマイクが拾って皆が聴いてる自分の声が少しズレるのが、自分の分離感、離人感を思わせるという感覚はある。このズレこそが、物としての身体の手触りだと言える。

自分の身体を動かすというのは、ビデオゲームでコントローラーの操作をするのと同じことだ。操作の指示を出して結果を受け取る仕組みが身体である。その意味では、自動車だって身体だし、コンピューターだって身体である。

パソコンが固まったときの、あの感じは何だろうか。それは身体のどのような状態だろうか。それは「遅れてる」のとも違うし「壊れた」のとも違う。身体が急に、指示を受けなくなった、自分に閉じこもってしまった、戻ってくるまで、しばらく待つしかない状態、パソコンが固まったとき、誰もが「はいはい、しょうがない、しばらくお待ちしますよ」といった態度になる。自然にプロセス解放まで待つか、強制終了するか、対処方法はさまざまだが、ほとんどの人は「パソコンは、たまにそうなる」と思っている。結果的には、そのようなときにのみ、パソコンの「存在を認めている」。そのときに認めたものが自分の身体=物だ。自分とは、この仮死の身体だ。