月曜朝の身体

朝起きてすぐに、今日はひときわ寒いとか、今日はまだましとか、体感でわかるような季節になった。寒いと外へ出掛けるのが億劫になるけど、だからと言って一日中家にいるとかえって身体に負荷をかけて不調を呼び込んでしまうような気がするというか、どうも人間というのは、一日のうちである一定量は身体を動かしてないと、かえって調子悪くなるというか、調子の悪さをわざわざ思い出してしまうような、知らなくてもいいような余計なことに気付いてしまってそのことに囚われてしまうようなパターンになりがちだと感じる。

月曜日の朝というのは、休み明けの、通勤と会社勤めの日々の始まりであって、その朝とは自分にとって決して晴れ晴れとした気分で迎えるような時間ではなくて、あーまた一週間がはじまるなーめんどくさいなー…などと思いながら、朝の支度をして、時間に追い立てられるように玄関のドアを開けて、真冬の寒さにつつまれながら駅までの道を歩きながら、あーかったるいなあ、しんどいことだなー、つかれることばかりだなーとの思いに頭がいっぱいではあるけれども、その一方で歩行をつづける我が身体は、そんな主の思いとは無関係に、自らが歩行運動に費やされていることへのよろこびを感受しているし、システム全体がしだいにゆっくりと温まってきて稼働率が上がってくるときの、このあともっとも状態の良い回転数へと近づいていくのを、身体が期待をもってじっと見ている。それがフィードバックされてくるのを、自分=脳はほとんど他人事として受け止めている。

決して自分の本意ではないが、身体がそれをのぞむならそれに従うか、従うしかないな、というのが、老人的感覚のいちばん最初の段階ということになるだろうか。プルーストの一巻の最初の方に「習慣」なくしては何も出来ない、眠りにつくことすら出来ない、みたいなことが書いてあった気がするけど、子供とは、自分と「習慣」との間を調整しつつ生きる者で、老人とは、自分と「身体」との間を調整しつつ生きる者である、などという定義は可能だろうか。いま、いいかげんに思いついただけだが…。