ヘンゼルとグレーテル

グリム童話の「ヘンゼルとグレーテル」って、どんな話だったか、すっかり忘れていたので、wikipediaで確認したら、けっこう驚いた。子捨て、彷徨、飢餓、かまど、食人、そして、食べることができる家。そして倒錯と近親相姦の気配、なんだか、これぞまさに二十世紀という感じじゃないか。…少なくとも、そのような脚色を受け入れるに最適な基本構造をもっているではないか。

カッツェはどれほど真剣に役を演じているのだろう?征服された祖国、占領されたオランダに生きる自分には、屋外で日夜、形なく、まともな輪郭もなく続く出来事---即決の死刑執行、逮捕、殴打、ごまかし、パラノイア、恥辱---をもろに浴びるより、それを形式化し合理化した物語に入っていくほうがましだというのが彼女の考えだ。こんなことを話しあいはしないけれど、カッツェもゴットフリードもブリツェロ大尉も、古い<北のお話>は、親しんでいるだけに居心地がよい。その、迷子の子供たちと、食べられる家に住む森の奥の女主人による、囚われ肥やされ<かまど>で焼かれる物語をルーティンとして保つこと。外で進行している、誰にも耐えられない<戦争>から、「偶然」の絶対的支配から、自分たち身の上のおぼつかなさから逃れるためのシェルターとして・・・
 家の中も安全とはいえなかったけれど・・・ロケット弾の打ち上げ失敗はほとんど毎日。十月の末に、この敷地からあまり遠くなところに一発のロケット弾が尻から落ちて爆発し、地上整備員が十二人も死に、周囲数百メートルにわたって窓が壊れた。カッツェが初めてお話(ゲーム)の中の兄の、金色のからだを見た居間の、西窓も壊れた。軍から流れた話によると、燃料と酸化剤が爆発しただけだというが、ブリツェロ大尉は震えるような---カッツェなら「虚無的」と言わざるをえない---悦びにひたりながら、弾頭に積んだアマトールも一緒に爆発したんだと言った。これじゃ発射基地なのか爆撃目標なのかわからんな。・・・まるで全員死の宣告を受けているようなものだ、と。その一軒家はデュインディフト競馬場の西にあって、ロンドンとは正反対の方向なのだが、そのぶん危険が少ないことにはならない。しなしばロケットは狂うのだ。でたらめに方向を変え、恐ろしい嘶きをあげたかと思うと狂乱のままに落下する。そうなると打つ手なし。後々まで、修正は不能なのではないかとささやかれている。タイミング的に間に合うときは、のたうち回る機体を空中で破壊するが、ロケットの発射だけではない。その合間に英軍の空襲がある。夕食の最中にもスピットファイアは轟音を立て、暗い海面を低空飛行してやってくるのだ。町のサーチライトはふらふらとして狙いが定まらず、サイレンの残響が公園のぬれた鉄製ベンチの上空にただよい、手探り状態の高射砲からポンポンと弾丸が飛び出す合間に、森林地に、干拓地に、ロケット部隊が駐屯しているはずの住宅地に、爆弾が降りおちる。(「重力と虹」188~189頁)

前触れもなくいきなり襲い掛かってくるもの、突然訪れる死。執行日を明かされずに監禁されている死刑囚の日々。生とはそのようなものだと誰もが自覚せざるを得なかった。ある強大な力の発動が、有無を言わせず我々の世界すべてを滅ぼしてしまう日がいつか来るのだと悟るしかなかった。

だからこそ「遊び」は、真剣なものになった。「ごっこ」も「ままごと」も、真に迫るしかない、真の呪縛を越えるしかないようなものへと進化する。ある特定条件下で独特の姿へと変貌したフィクションの形式…。