kippy

ピアノの音を聴くと、静謐な気持ちになるなんていうのは、いかにも素人くさいのかもしれないけど、僕はいまだにそういうところがあるし、きっと今後もずっとそうだろう。もちろんピアノならなんでもいいわけではないけど、ピアノに可能なあの音自体への無条件な信頼というのはある。ただし無制限にいくらでもいいわけではない。そこまで許容量があるわけではない。そういう人もいるだろうけど、僕はそうではない。ピアノがたしかに特別であることを認めるのにやぶさかではないけど、だから古今東西何でもござれ、何でも聴かせてくださいと思っているわけではない。

大西順子カルテット「Grand Voyage」を聴いていたら、アルバム最後の曲がダラー・ブランドの「kippy」だった。最初、曲を聴いても、それが何の曲だか思い出せなくて、しかしおそろしく旋律の細部まで記憶していてその反応が鳴り止まないので(元曲にかなり忠実なところのある演奏だったので)、あまりの思い出せなさに、ほとんど悶絶に近い思いを味わった。

二十代の頃、ダラー・ブランド「アフリカン・ピアノ」を、なぜあれだけ何度も何度も繰り返し聴いたのか、今となってはよくわからない。このレコードの文脈とか、ダラー・ブランド=アブドゥーラ・イブラヒムについてとか、掘り下げるべきところは多々あるはずだろうが、いまだにいっさい知らない。当時はただ「アフリカン・ピアノ」だけを聴いていた。今思えば、そんなタイトルもどうかと思うけど、そういうラベルを貼ることで、これが実現できたのならば、それはそれで、やはり良かったのかとも思える。

やればこうなる、弾けば音が出る、弾き続ける限り音楽が続いて、やめれば止まる、そういうことの実証のように思っていたと、今思い返して無理やり言葉にすればそういう感じもする。まあ何しろ、何度もくりかえし聴いた。今あらためて聴いても、決して当時のようには聴こえない。