祭日だが、寒いので家に引きこもる。朝からなぜかずーっとテレビばかり見ていた。窓の外は曇り空で、テレビ画面の向こうも似たような色合いの空が映っているが、そことここは時も場所も別。午後は音楽を聴く。最近音楽を聴くのが、なぜか休日に家にいるときだけになってしまったが、そういうことはたまにある。またしばらくすると、別の聴き方になりもする。ミシェル・ンデゲオチェロがカバーしているティナ・ターナーの曲「プライベート・ダンサー」のサビがニック・ケイヴのあの曲に似てると思って、もしかしてニック・ケイヴがこの曲を意識してるのかしら、とか思って、あれはたしか、これに収録されていたと思ってヴェンダース「夢の果てまでも」のサントラを久々に聴く。ニック・ケイヴの件はたぶん偶然似ただけだろうが、というか似てないという人もいるだろうが、それはともかくこのサントラは、かつて二十代だった僕が、ほんとうに何度もくり返し聴いた。とくに好きなのは一曲目のトーキング・ヘッズと、なつかしのジュリー・クルーズと、ネナ・チェリーのダヴと、CANのトライバル的なやはりダヴ的なやつと、重厚で溌剌としたルー・リード、エルビス・コステロ、デペッシュ・モードも、最後に収録されてるU2、U2は僕はほとんど聴いてないのだが、当時「Achtung Baby」だけは人から借りて聴いた。ディレイの効いたギターのこの感じは、うわーロックバンドだなあカッコいいなあと今聴いても思う。デペッシュ・モードは本曲のようなスローなやつに顕著だが深刻ぶった耽美系の奥底に漂う歌謡風な味わいがとても心地よい。トーキング・ヘッズの曲はアルバムのオープニングに収録されていて全体の雰囲気を決定付けているが、もし可能なら僕はトーキング・ヘッズの「Remain In Light」が発売された前後の時代をティーンエイジャーとしてあらためて経験したい。1980年リリースだから当時は9歳だった。もしも当時17歳くらいだったら、あれを聴いて自分がどう思ったか知りたい。難解っぽく高踏的でスカしていてしかし魅惑的な感じにどう反応しただろうか。かすかにおぼえているのは中学生の頃、True Storiesの映画が日本で劇場公開されたときの新聞広告。他映画と隣り合った小さな掲載広告だったけど物凄くカッコいいと思った。でもいまだに未見。すごく自分に引っ掛かりそうな釣り針がやたらと出てる印象のバンドだと思うのだが、結局僕はトーキング・ヘッズをほぼ聴かない人生を送ることになった、しかしバンド最後の曲とも言えるこれは今でも好きだ。ネナ・チェリーはネナ・チェリーが好きというよりこのDUB-MIXが凄く好きだったのだが、でもネナ・チェリーという存在自体、当時すごくカッコよかった。そして若い頃の僕が所有していた再生装置では、この曲の低音がまったく満足に出ず、当時のウォークマンで音をでかくしても全然ダメな、そのときの物足りない気分を思い出す。今聴くと、ああ古いなあ、こんなもんだったのだなあ、当時の音だなあと思う。今とくらべたらぜんぜん太くも重くもない。ほんとにデジタル音楽の音質って、これの何十倍も表現力豊かになったものだよなとつくづく感じる。CANも、僕はCANもそれほどきちんと聴いてないけど、本曲はすごく好きだ。しかしこれも、CANが好きというよりも、このMIXが好きだということだろう。こういうのが昔から好きだったのに、当時カテゴリーやジャンルとしてのDUBを集中的に聴こうとは思わなかった、というか、カテゴリーやジャンルとしてのDUBという風に、それらを捉えてなかった。今思えば勿体無かった。もう少しジャンルに意識的であれば、似たような音楽はたくさんあったし、もっと早くから適切な売り場を目指して行動できて、もっと色々聴けたはずだ。ジャンルは、とくに若い頃はそれに囚われたくないと拒否反応が出てしまう部分があったのだけど、単にインデックスというか探しやすくアクセスのために付けられたレッテルに過ぎないと割り切って、もっと上手く活用すれば良いだけだったのに、若いときはそういう柔軟性もなく効率にもは無頓着だった。あと同じようなものを聴く友達もいなかった。そういうのは共有できる相手がいるだけで全然違うはずが、当時はいなかった。というか90年代、僕は完全に友達ゼロだったような気がする…。いや、でもこうして書いていると、今も昔もとくに変わってない、登場人物としての自分が地続きで生きているだけだ…という気に次第になってきて、それが意外だ。書く前は、ほんとうに遠い時代の雲の向こうの別の街で暮らしている他人の思い出のようにさえ感じていたのに。