Amazon Primeでスパイク・リー「アメリカン・ユートピア」(2020年)を観た。デヴィッド・バーンという人がこんなに批評意識の強い音楽家だとは知らなかった。自分のやっている音楽に対して、ゼロからこれだけ意識的にステージパフォーマンスを作り上げてしまうとは。べつにふつうのバンドでふつうにやればいいのに、それをしないというより出来ないのだろう。批評的であることと神経症的であることは紙一重だ。
従来のどんなライブステージのパフォーマンスにも似てない、徹底的に統御された集団的な動きと演奏だが、そこに卓越した肉体と技術をもつダンサーとかパフォーマーの凄さみたいな要素はない。むしろ滑稽で不格好で素人くさい、吹奏楽部が行進してるみたいな感じさえ彷彿させる。にもかかわらず、このようなパフォーマンスでこの演奏がくり広げられていることが、ちょっと信じがたいところもある。
複数人が同じ振り付けで踊るような場面、たとえばR&Bのシンガーとコーラス隊が歌いながらぴったりと揃った振り付けを見せるようなイメージとおそらく同等の準備や練習がなされているだろうけど、それがこれまでのどんなダンス音楽のステージで演じられたパフォーマーの仕草とも微妙にズレていて、躍動的で踊りたくなるような音楽のはずなのに、これまで知ってたはずの何か、どこかで期待していたはずの何かとは、まったく違うノリによってそれがあらわされて、しかもそれはそれでまた別の躍動を生んで、まるで逆引きの歴史参照がなされたかのような、新しいものを体験しているときに固有な、どこか居心地の悪さをともなった興奮をおぼえる。こういうのは、なかなか見ることができないものだ。
トーキング・ヘッズは初期の頃からブラック・ミュージックに対する(嗜好というよりも)批評意識が強いグループだったなどとよく言われるけど、それがまさに、今にいたるまでデヴィッド・バーンがずっとトラウマのように抱えている問題意識なのだなというのがよくわかった。同時に、なぜこの作品の監督がスパイク・リーなのか、経緯は知らぬにせよある種の必然性みたいなものも理解というか納得できる気がした。
そして何しろ、今更ながらデヴィッド・バーン(トーキング・ヘッズ)の曲はどれもいい。どの曲もまさに「あの」感じだ。僕はトーキング・ヘッズをそれほどちゃんと聴いてきたわけではないし、今になってアルバム単位であらためて聴いてみようとも思わないのだけど、しかし本作によって甦った往年の各曲たちはどれもがじつに素晴らしかった。(余談ながらクラフト・ワークが2005年にライブ盤「Minimum-Maximum」をリリースしたとき、あれで彼らの昔の名曲が見事に「今の音」としてよみがえったときの感じを思い出させた)。
生演奏じゃなくて録音を流してるのでは?という疑惑を晴らすかのようにメンバーが次々と楽器の音を重ねていって曲をスタートさせる場面があったけど、いちばん「疑わしかった」のは何よりもデヴィッド・バーンの歌唱だ。あの歳であれだけ朗々と歌えるというのは、凄すぎてさすがに「ほんとうかよ」と言いたくなる。
ステージを去って楽屋で皆でライブの成功を称えあって、しばらくしてから着替えたデヴィッド・バーンが裏口から出てきてファンに手を振りながら自転車で去っていく場面。そうか演奏して終わったら自転車で帰るのか・・・と、ニューヨーク、カッコいいですねえ…と思った。