本を読んでいる。眠くなってくる。意識が遠くなり、しかしまた戻り、目が文字を追い、しかしまた意識が遠くなる。読んでいる箇所が、さっきから変わってない。同じ箇所を何度もくりかえしているようだ。あらためて、行のはじめから読む。だが大正九年には三女寿々子が生まれる。大正十一年一月には四女万亀子が生まれる。志賀直哉の周辺はにぎわいを増した。直康、寿々子、万亀子の命名は父直温、彼らをとりあげたのは篠崎リンという名の有能な若い産婆であった。彼女は看護婦でもあった。遺漏のない篠崎リンの職業婦人としての仕事ぶりは直哉を感動させたが、「改造」の編集者で直哉の担当者として志賀家に繁く出入りしていた瀧井孝作も彼女に注目した。そんな折、僕は訪れた先で近くの旅館に泊まる。昭和の雰囲気が濃厚な、まるで田舎の木造校舎のような建物だ。部屋に荷物を置き、先にひと風呂浴びようとギシギシ鳴る木の床を踏みしめながら浴室へ向かう。一階にある下駄箱と隣の職員室の先に、風呂の表札が架かっているので、その扉を開ける。するとタイル張りの広い空間で、目の前にはぐるりと洋式便座が公園の遊具のように輪を囲うように設置されている。これらの一つに腰かけて、用を足すらしい。ズボンをおろして腰かけると、何やら人の気配がして、物音と共に後ろのドアががらりと開いて、たぶん別会社の二人組が、すいません失礼しますと言いながら無遠慮に入ってきた。しかもこっちは便座に座っているというのに、二人はおかまいなしに服を脱ぎはじめた。妙に場慣れした雰囲気の二人で、さも当然であるかのようなそのふるまいを見つつ、なにか様子が変だなと思っていたのだが、ふと気づけば便器内の水はすでに盛大にあふれており、座る自分の下半身は完全に水の中に浸っていて、あたり一帯、激しい勢いで水かさを増しているようなのだ。視線の先にはあろうことか他人の排泄物が、自分との距離もほんのわずかなところに、水に浮かびつつ波間に揺られているではないか。そんな水の中に、なぜ自分がこうして浸かっているのか、なぜこれほどまでに不衛生な環境を自分が受け入れなければならないのかと自分に問いただしている。ふたたび意識が戻り、まるで浮かんでいた電車の車輪がふたたび着地してレールに組み合わさるようにして、読んでいた本の続きに視線が戻る。さっきまでの旅館は、本に書かれてはいなかったのを認識する。だったら、どこまでは読んだのか、どこまでが夢だったのかを、たしかめるようにすこし後戻りする。直康、寿々子、万亀子の命名は父直温、彼らをとりあげたのは篠崎リンという名の有能な若い産婆であった。彼女は看護婦でもあった。瀧井孝作はその頃妻帯していた。しかし偶然にもリンという同名であったその妻は大正十一年に病死した。