スプラッター

リック・デッカードの苦しみについて考えているうちに、八十年代に生じたホラー映画(スプラッター映画)の流行について思い出す。

当時もてはやされたそれらの作品はどれも、おおむね特殊メイクによる直接的な暴力・残虐描写が特徴的で、サム・ライミのデビュー作「死霊のはらわた」をちょうどその頃に知ったのだと思うが、なにしろ当時は、死霊のなんとか…というタイトルの映画が星の数ほどあるようなありさまで、それらのどれもがゾンビ系というか、ゾンビであるがゆえに可能な暴力・残虐描写を炸裂させている映画ばかりという印象だった。

たとえば「ゾンビ」なら、人間から非人間への切り替わりの瞬間が見るべき何かとして明確に捉えられていたし「悪魔のいけにえ」も、他人の狂気との対面を強要され、暴力と強姦の奥底からおぞましい親和が生まれてくるのを、はからずも発見してしまいかねない悪い予感が漂いまくっていて、それこそが身の毛もよだつような気持ち悪さなわけだけれども、「死霊のはらわた」は、それらとはまた別の映画で、当時よく言われたように、登場人物がいったん「死霊」になってしまえば、それが元々誰かの恋人だろうが友達だろうが、その時点ですっぱりと気持ちが切り替わって、平気で相手をやっつけようとする。やっつけないと自分が死んでしまうから仕方がないのだけど、それにしてもすごく潔く割り切って、登場人物がかつての知己だった相手を殺す→「それ」として破壊する、話だった。

もう四十年近く前に見たかぎりの記憶なので、ほぼ想像だけで書いているし、もし仮に再見出来るとしても観る気はまるで無いけど、それでもあれはあれで、当時においては強烈なカウンターだったのだろう。しかしながら、それでは簡単な結論に過ぎないし、そればかりをくりかえしていても仕方がないのは自明なのだが、そんなことは誰もがわかっていて、でもあえてやっていた。そういうのがたぶん、スプラッタースラッシュメタルとかハードコア、テクノやオルタナティブ系にまで引き継がれた気分として、二十年くらいは続いたということか。そしてたぶん今や、そういうのは滅びたのだろう、だから今さら思い出すのか。