賭博

賭博がすごいのは、それに飽きてしまうことがないということだ。賭博は、物語ではないし、何かの比喩でもない。目の前に展開されている、その回転体をひたすら見ているだけ、それだけのことが、いつまでも続くのがすごいのだ。

下手な表現だの芸術だのよりも、賭博の方がよっぽど混ざりものなく純度の高い確固たる存在感で屹立しているのは確かだし、少なくとも賭博の方からこちらに言い訳や妥協や感動やら共感やらを示してくることはなく、群がる者どもなど一瞥もせずそのままにある。

生活の憂さを、賭博ではらすというのは、おそらくはそういうことだ。濁りの除去であり純度の回復であり、小賢しくまとわりつく意味の一括リセット、句読点の一括消去、構築物の取り消し、仕掛り中に見える恰好自体の否定、またふたたびゼロからくりかえして、今いるここからタイムマシンで元の場所に戻るようなものだ。

お金の使い道は、タイムマシンに乗るためのチケット代だ。もしお金が潰えなければ、ひたすら時間を巻き戻していられるのだ。何も変えずに、架空の今をループさせることができる。

賭博とはつまり記憶へアクセスすることへの拒否だ。記憶を元手に何かを企てようとする、与えられた出来レースへの反抗だ。反抗に権利はある。それを咎めるものはいない。できうるならば時間の許すかぎりずっと、それを続けても良い、数えきれないくらい何度も過去への遡行をくりかえして良い。できうるならば、時間に生きることを拒否し続けて良い。