現実

遅めに家を出て会社へ向かうとき、いつもより少し遅い時間というだけで、すべての景色の意味合いが変わって見える。このときに、自分の内側も外側も、しんじられないくらい空っぽになったような感覚におそわれる。ばかばかしいような話だけど、いつもと数時間ずれてるこの世の中すべてを、昨日までとはまるで違ったものに感じている。

空っぽというのは、いつもの記憶、慣性、習慣を支える地の領域、が、クリアされてしまったということだ。だからむしろ、いまこの現実のほうを、強く感じ取っている状態に近い。この現実感の手応えの無さがすごいのだ。現実感を感じられないとは言ってない。現実感を強く感じている。しかしそれこそがスカスカなのだ。

これこそが不安の予兆なのだろうなと思う。何も無さに触れることでヤバくなる、これがその手触りなのだろうなと。

それに近づきたい思いと、近づくと良いことなさそうだな…という警戒心がある。遠くで見ているだけ、たまにこうして錯覚のように感じるくらいで丁度いいかなという打算的なところに落ちつけている。

仕事もそうだし、生活というものすべては、麻薬が効いてるかのように成り立ってるのだなと思う。

ファイナンシャルプランナーに相談して、もう資産だけで生活できるみたいだから、仕事やめちゃって悠々自適です、みたいな人も世の中にはいるらしい。でも、もしそんなことになったら、麻薬が切れて、それこそあらわになった「現実」に、つぶされてしまわないのだろうか。いやお金こそが現実を忘れさせてくれるのだとしても、その効き目が薄れてきたらどうするのか。でもそれはそれで良いのか。お金に関係なく、きっと誰もがそうだ。

年齢を重ねるというのは、現実に近づくことなのか、遠ざかることなのか、それも意志の問題に帰するか。