時間を描く

竹橋の近代美術館の新収蔵品、ボナールの「プロヴァンス風景」を観る。
ボナールは、物象ではなく「時間を描いている」と、ひとまず言ってみる。
時間を描くことは出来るのか、出来る、たとえば、このようにしてだ、というわけではない。
結果的に「時間を描いている」としか言えないようなものが出来たということだろう。しかし、毎回そうなってしまうなら、やはりそれが「狙い」ではないか。
べつに「時間」なんか描いてない。それはお前の考えに過ぎない。これはただ単に、これだけのものだ。
たしかに何が描いてあるのかを、言葉では言いあらわしがたいと思うが。
描くとはどうであれ、固定、固着させることにほかならない。
しかし固定・固着した物象などこの世界に存在しない。だとしたら描くとはどうであれ、固定、固着させることだという考え方が間違いだ。
しかし僕もあなたもここにこうしているではないか、固定しているじゃないか。
この風景、これは今ここにしかない。あるいは過去にしかない。あるいは未来にしかない。
この絵が描かれたのは1932年とのこと。その当時の光が、今ここに届いた?
違う、そういうことではない。これは今ここにある光だ。
うしなわれたものへの感傷とはまるで別の、ここには清潔で残酷な喪失というものが、ある気がするなあ。
見えないものが見えるとしたら、そういうことかなあ。
時間が見えるとしたらなあ。
時間が含まれている様子が見える、そのためにむしろ覆い隠されている。
ステータス="クローズ"になった要素の集積で出来ているのだけど、かつてそれらはすべて"アクティブ"だった。
しかし、すべてが"アクティブ"になってる状態を、知覚することはできない。
すべてがステータスの遷移を経たものだという過去の事実を示す、それが見えないものを見るための今のところ有効なやり方の一つなのだ。