最近定例と化しつつある、男二名での食事会のために退社後恵比寿へ向かう。けして広くはない店内のテーブルが、ほぼ客で埋まっているのは金曜日の夜でもあることだし不思議ではないが、場所柄によるのか店柄によるのか、それぞれのテーブルを囲む僕達二人以外の客がものの見事に全員女性で、したがって店内は週末であることに加えてある種の華やかさに満ちていたのであるが、こういう場における、あたかもマイノリティーとしてかろうじて場を与えられたに過ぎないかのような、かすかな肩身の狭さというか、妙な緊張というか自意識の制御し難さというか、そういうのを感じるかと言うと、僕はこのシチュエーションに限ってであればその耐性を有しているタイプで全然リラックスしていられるんだよねと向かいに座った相手に話す。たとえ今この場に君がいなくて男性が僕一人だったとしてもさほど気にしない。自分で勝手に楽しんでしまえる。というか実際に何年か前、ここよりもっと女子度濃厚な、壁もテーブルクロスも全部ピンク色みたいな、花瓶に白い薔薇が生けてあるような店で、客全部が女子でサービスも女性という状況下で、片隅の席にたった一人黒いスーツ着て食事したこともある。そういうの全然平気。食事が終わって最後に厨房からシェフが出てきて「お楽しみいただけましたか?」とにこやかに聞かれても「はい!」と元気よく答えたものだと。相手はそんな僕を見て、そうですか、まあ楽しめるなら何よりですね。自分は個人的に、年末に連れてってもらった店がいちばん好きですけど、と応える。
あの店、うちの妻も好きみたいよ。たしかに悪くないよね。
料理もサービスも客層も全体的に良かったです。男性客多かったですけど。
じゃあ、ここからはある意味、創作でいいんだけど、レストランやバーでの出会いってある?
自分はないですけど、出会う話は、珍しくないみたいですよ。店の人はよく知ってるんでしょうけど、客同士の、下らないような、犬も食わないようなエピソードは、いくらでもあるみたいですね。
じゃあ、もっと夢のある話は知らないの?あるいはこう、人生について考えさせる系の話とか、身につまされる系の話とか。
いやあ…どうかはわかりませんけど、そういえば、カクテル好きな知り合いが、たまに行くバーで飲んでいたときの話なら、ありますけど。
ふいに隣に来たらしいです、寒いですね、と、声をかけられて。
ベタな始まりだなあ、まあいいや、それから?
それが唐突だったので、とっさに彼は返事ができなくて、口に出そうとした声が絡んで、そのとき相手の着ているグレーのコートが、まるで大きめの毛布がその下の身体を包んでいるように見えて…
ちょっと照れて、黙ったままで、その肩口のあたりをじっと見ていたそうです。
相手は小さく背を丸めて、彼の隣に座りました。それで彼も視線を上げて、はじめて相手を見ました。
暗い店内の仄かな光に浮かんだ、長い髪の、すごく整った顔立ちでした。
おお…美人だな…と、思ったそうです。
そんなきれいな女性が、無防備に距離をつめてきたら、ふつうは少し警戒するものじゃないですか。
ただし、ここはバーだから、隣の客と気さくに話もする、場に応じたそれらしい振る舞い、というわけでしょうかね。
たぶんその女性なりの社交のやり方なんでしょうね、見た感じ若いのに、いや若いからこそというべきか、
楽しげに装った態度の奥に、そういう律儀さというか真面目さを感じました。
それにしても彼にとっては前代未聞級の美人だったらしくて、しかも屈託なくて、話も面白くて。
彼も適当に会話をあわせていながら、内心は緊張していたようです。
いや、緊張していたことには、後から気付いたんですかね。そのときは、ただ楽しかったんでしょうね。
そのまま、二人だけでずいぶん話し込んだらしいです。
相手が楽しそうなので、彼はかえって気を遣ってました。
無粋になるのは良くないと思って、それなりに良いひとときにまとめたくて。
一杯で帰るはずが、気付けば三杯目を飲み終わっていて。
相手の女は最初、一席分空けて座ってたらしいんですけど、周囲を見回して、混んできましたねとか言いながら、彼のすぐ隣の席に座り直したんだそうです。こちらに身を寄せるかのように、ぐっと間合いを詰めて、このときばかりはさすがに彼も胸の高鳴りが早まったらしいです。
…まあ、でも彼もすでに分別のあるいい大人ですよ。勘違いなら勘違いの一瞬を自嘲気味に楽しんで、それでさっと帰ることくらい出来るでしょうから、出会ってもその場限りで、まあせいぜい、余韻のように記憶をいつくしんで終わるだけでいいと思えるでしょうから。
で、その女が席を外した隙に、会計して彼はひとりで店を出たんだそうです。
それで歩いて家に帰って、ふつうに寝たんだそうです。
異変に気付いたのは翌朝以降だそうです。
その彼と自分が、何日か前に客先の会議室で会ったとき、バーの夜はすでに一週間以上も前の出来事のはずですが、いまだに彼は、まだぼーっと夢を見ているような状態が続いているんだ、とか言うんです。
昼も夜も、そのことばかり思い出して、暗闇に浮かぶその顔、そのひとときの甘美な時間の心地よさを思い出して、そのたびに麻薬を注射したみたいに、はーっと息を吐いて、そのままぼーっとしてしまうと。
心の中に、あの顔が浮かび上がってくると、ひたすらせつなくて、喜びと悲しみのごちゃまぜになった感情につつまれて、そうなるともう、何も手に付かなくなるんだそうです。
そのバーには、それ以来行ってないそうです。行くのが怖いんだそうです。
その女は、本人がそう言ってたんですが、二十五歳だそうです。
…うーん、そうなのか。
しかしそれって、単に一人客同士で、ふつうに会話しただけなんでしょ?
まるで普通の、なんでもない、ありふれたひとときだっただけでしょ?
それは…悔しいというか、そんな簡単に、骨抜きにされてしまうものなのだろうか。
まるで年老いた男の惨めさが、水溜りに浮かぶ油のように鈍くギラついているかのような逸話だな…。
…ところで、その話って、本当のことなの?
さあ、どうでしょうか。我ながら、話としてはつまらなすぎると思いますね、だからひとまず、秘密にしておきます。