観る

映画つくりの経験もなく、ただひたすら他人の作品を見るだけで満足している映画ファンというのは、なんとしあわせなことだろう」とジャン・ルノワールは彼の自伝のなかで書いている---

禁断の木の実を食べないかぎり、安心だ。映画を作ることによってわたしは多くの幻滅や失望を味わった。しかし、映画を作ることの歓びにくらべたら、どんな悲惨もものの数に入らない……。

ジャン・ルノワールこそ「永久に新しい波である」とジョナス・メカスは彼の「映画日記」に書いているけれども、映画を作ることの苦悩と歓びをとおしてのみ「映画は万人のもの」となりうることをヌーヴェル・ヴァーグに教えたのが、ジャン・ルノワールだった。

映画はわれらのもの 山田宏一「友よ映画よ」ちくま文庫148頁

映画を観るときに、「しかし、どう間違っても、自分が作品の作り手側にまわることはない。自分はあくまでも観る側であり、完成品を受け止める側であり、したがって目の前に起こる出来事すべてに対して、自分は善意の第三者として存在する」との考えを「持たない」ことは重要だ。

この映画を「まるで自分の成功あるいは失敗」のように感じながら観ること。その音楽に対して、他人事ではない不安と緊張を感じること。その小説に対して、本来なら自分が浴びなければならなかった罵倒や批判の声を感じながら読むこと。

同時に、常に作り手である自分の、当事者ならではの作業途中の粗い意識を抑えることなく作品に触れるのを「つつしむ」ことも重要だ。作品に触れるとは、原則としてそれまでの自分を止めて別の時間と空間を生き直すことでもあるからだ。

いずれにせよ作品は、常に自分に対して半分は閉じたまま、もう半分は無防備なままに迫ってくる。それに触発され、挑発され、余計な入れ知恵を吹き込まれ、まさかこの自分が、あろうことか明日にも自作品に着手してしまうかもしれない、その高揚と不安と緊張を、常に心に持つこと、持たないわけに行かない不穏な状態に身を置くことが、作品を観ることのはずで、これは才能とか条件とかの話とはまったく関係なく、誰もがそうであるはずだ。「自分はそうではない」と思うのももちろん自由だが、そう思わなければ成立しない作品は多々ある。ヌーヴェル・ヴァーグは---少なくとも1968年5月までは---はっきりとそれを自らの指針に掲げていた。

それは昔話ではなくて、以後すべてをそのように読み替えよという意味であり、したがって作り手と受け手の関係はそれ以後変わり今に至る。観ることが「ただひたすら他人の作品を見るだけで満足」できるものではもはやなくなってしまったということだ。

革命とか連帯はもはや無効というか、信じることは難しいのかもしれないが、それでも「作る」というのは、今もどこかでそのような行為の色合いをもったものだ。そしてそれは「観る」も同じだ。「観る」ことを、自分自身で勝ち取るべきものとして意識する。それがヌーヴェル・ヴァーグであり、映画、音楽、文学、美術その他、それ以降のあらゆる作品が要請するものとなった。