ブレッソン二作

新宿シネマカリテでブレッソンバルタザールどこへ行く」(1966年)を観る。

オートバイ(というよりも原動機付自転車)、トランジスタラジオから流れる歌謡曲のけたたましい放送音、明らかに二十世紀後半に時代背景が設定されているはずだが、まるでそんな感じがしない、まるで18世紀頃の、まだ産業革命前というか近代以前の、旧いキリスト教にもとづいた重苦しい旧来制度下の田舎村としか思えないような雰囲気に感じられる、それは思い込みか。そんな昔を思わせるシーンは、別に出てこなかっただろうか。ふつうに自動車も走っているし、金や権利の問題も現代に通じる感覚の話ではある。にもかかわらず前近代の雰囲気を強く感じさせるのがなぜかといえば、この映画が最初から最後までキリスト教的な罪の問題についてひたすら考察しているようだからか。ロバにまたがるイエスを、思い浮かべないわけにはいかないからか。主人公マリーという名前に、マグダラのマリアを思い浮かべたくなるからか。ブレッソン作品で女性を撮るショットは、いつもラファエロやレオナルド、あるいは各種バロック様式的なポーズと陰影をたたえているように見える。その時代の、その空間内で思慮し苦しみ祈る、今それを生きている人物という感じがする。

映画がはじまって、オープニング・クレジットを観ながらピアノ曲の荘厳な旋律を聴いていると、いきなりそれが断ち切られて、激しいギターノイズが炸裂したかのように聴こえたが、それはノイズではなくてロバのいななき声であった。ああ、これは動物の鳴き声だなと、なんとなく想像はつくのだが、それでも聞こえてくる音としては、激しいギターノイズである。ゴダール「映画史」のときも思ったけど、この作り手の、音に対する感覚の細かさというか、聴いてる単位の細密さはすごいなと思う。どこでどのように繋げて、どのように細かく裁断するのか、作ることへの意識の細やかさ、その緊張感に付き合うということだなと思う。どの画面も単独で立ち上がっているかのような強さを秘めていて、映画というのは連続的なものだからその都度関係付けが発生しては消えていくはずなのだが、それが限界まで遅延するというか、観ていることが、目の前から消えてしまう絵の思い出に浸ることの連続みたいなものになる。

マリー(主演アンヌ・ヴィアゼムスキー)の、うつむいた顔、視線。母親の厳しい顔。父親の風貌。幼馴染ジャッキーの雰囲気、不良少年ジェラールの顔、そのとめどなく掴みようもなく続く悪行の有り様。フィリップの知り合いアーノルドの態度、卑小さ卑劣さ無為さ空虚さと聖性(の直前)が重ねあわされたかのような最期。この映画の面白さは、これら人間の態度や様子が、ある意味、すべてバルタザールから見られている視点のように感じられるところか。バルタザールしか出てこないシーンも少なくないので、それこそ人間が消えた、誰も見てないはずの時間と空間を観たかのように錯覚されて、すごいものを観た気になって驚いたりもする。ちょっと変わった怪獣(モンスター)映画みたいな感じもある。非人間的な場所から考察されるキリスト教的原罪の問題というか、原理的にキリストを知りようがない動物の側から考察された罪と救いの問題というか。

続けて、ブレッソン少女ムシェット」(1967年)を観る。

ムシェット(主演ナディーヌ・ノルティエ)の、人物としての強さ一発で作品が立ち上がっている感じだった。粗末な着物、ぼろぼろの髪の毛にほつれそうなリボンが結ばれてる。男物のような武骨な黒い鞄、サイズが足にまるで合ってない靴、その靴で泥濘を選んでわざと足を汚す。泥を跳ね散らかす、茂みに隠れて同級生に泥を投げる、家では病気で寝たきりの母を気遣いつつ、母に替わって赤子を世話する。しかし何をさせても、やりかたは雑というかガサツ…なように、観ているこちらには見える(笑)。粗末な家。やるべき家事が終わると、そのまま倒れこむかのようにムシェットは自分の寝床に入る。お風呂入らないのかしら…と心配になる。

でもムシェットを悲劇的な少女とは思わない。観る者が対象をそのように捉える距離的余地を許しているようには、映画が出来てない。ムシェット、眼力はとんでもない、二本の脚も杭のようにたくましい、幼さとあどけなさと逞しさを併せ持った、中学生くらいの少女。これはおそらくあまりにも鮮やかな「先駆け」であったということだろうか。以降、この世の小説や映画のなかに、彼女のような登場人物は、くりかえしあらわれることになるだろう。

それにしてもあのラストシーンの処理には痺れるというか、それを言ったら「バルタザール…」もそうだが、ああやって「ふつう死なないでしょ、それ」と思わせる感じの人物の死なせ方が、悲壮でありながらも異様にカッコいい。そもそも表面的な意味での説得性とかをまるで気にしてないので説明のつかない箇所だらけなのだが、そこがカッコいい。最後、茂みに洋服だけ引っかかってるだなんて、あれでは、最後彼女がどうなったかなんて、誰にもわからないではないか。ムシェットが前半の雰囲気と後半で、おどろくほど妖艶になっていくというか、次の段階へ変容していきながらもすぐ間際に死の影がさすような、こう書いているとありきたりだし、実際ありきたりな話ではあるのだが、それでも朝帰りしてから以降のムシェットは、眼を見張るほど素晴らしかった。ナディーヌ・ノルティエという少女、まさにこの人物ありきの映画だなあ…と思った。

あと、話の最初の方で出てくる遊園地のシーン、バンパーを囲った一人乗り車両で、お互いに車体をガンガンぶつけ合いながら思い思いに走り回るアトラクション、あれは僕も子供の頃、遊園地で乗ったことがあると思う。あれは楽しかった。あんなのは、もしかして今どきの安全基準では許されないのじゃなかろうか。