無解決

横浜、弘明寺のGoozenで、Goozen meet me シリーズ#1 井上実×白田直紀展 ときのげ ―時間外― を観た。

マティスの絵を観ていても思うことだが、絵には解決がない、小説や映画のようにラストが用意されていない。しかし見始めることは出来る。その絵を特定して、ひとまずの出発点をもつことが誰にでもできる。

しかしいちど見始めてしまうと、それは時間をともなわない移動のようになる。時間旅行のように、自分自身は動かないまま、次々と異なった、どこまで行ってもとりとめのない、あるいは見たのではなく見落としたとの感触を、連続して感じることになる。

見えたことで得られるはずの満足は保留とされている。見えたという過去形そのものが奪われているので、見えなさそのものを見ているようなことになる。

見えないのではなく、見えなさとして見える。しかしこれは、見えたときよりも、驚きをともなった経験になる。とはいえ、それとこれとの共存、あるいは排他の様子、そういう驚きの経験を、自身のなかに肯定された歓びとして自身の記憶領域に書き込むには、それなりの勇気が必要だったりもする。

もちろん誰もがそのようにすべきという話でもない。見えなさの手前に視線を漂わせているだけでもいい。それはそれで、絵は解決することなく、いつまでもそこにあり稼働を待っている。その気配を感じ取っているだけでもいい。