松浦寿夫展(なびす画廊)


絵を観ると、絵を観る。絵を観るとは、表面を観ている。観ているうちに、時間が経つ。観ていること自体が、時間の経った経験として、別に保管されてしまって、しかし、なおも観ている。観ているので、観ていることそのものは、保管物をさしおき、ひたすら流れ落ちている。流れ落ちている一つ一つのものが、感覚と呼ばれるようなものだとして、現実はなにしろ、ひたすら、流れて零れ落ちていき、保管物も都度捨てる。ひたすら捨てるので、いつみても大体何もない。しかしこの感覚ぜんたいの、記憶される抑揚の形跡というか、強弱の感じ。連続した複数のありかた。作品とは詰まるところ、それだけの問題だと思い、それでいいと思う。歴史とかも、気にしなくて良いはずだ。とにかくただひたすら、だらしなく流れて零れ落ちるだけ。こういう感覚の状態に近いのは、おそらくあのややこしい書物たちだろうとある数箇所を思い浮かべる。この感覚の、このスピードにきっちりと寄り添ってくれる文章といったら、あれらのややこしい箇所しかない。自分が、今観ているものに対して感覚を揺り動かされているということと、自分がそのように感覚を揺り動かされているそんな自分の存在があるということと、二つを同時に、ふかく驚く。そのことの、いったいこの相変わらずの驚きの質が、どこにあるのか、未だにわからないと思っている。