図鑑「危険生物」は、人間にとって危険な要素があるなら何でも掲載する方針のようで、後ろの方のページに貝の牡蠣まで載っているのには、おいおいと突っ込みたくなった。ときには食中毒をもたらすからだろうけど、サメの危険さと牡蠣の危険さはまるで違う、というかサメの標本を禍々しい思いでまじまじと見ることはあっても、牡蠣の姿を同じ思いで見ることはない。

ホウジロザメが食物をとらえるときの、巨大な口をめいっぱい開けているイメージは誰もが知るところだが、巨大な獲物を確実に捉えるため、ホウジロザメの顎は、そのときだけ前方へ飛び出さんばかりに大きく張り出す。それがあの、いかにも恐ろし気な「サメの顔」を作り出しているのだが、しかし動物がもつ身体的機能にはすべて意味があるとはいえ、なぜあれほど邪悪で無常で本質的恐怖を誘われるような表情をホウジロザメはたたえているのか、あれほど凶悪な表情をいったいどんな経緯で獲得するに至ったのか、じつに不思議だ。如何にも怖そうなやつが実際ものすごく怖いというのは、まるでヒネリもオチもないではないかと言いたくなる。

と言うよりも、こうして地上にいる愚かな人間だけが、そのような恐怖の感情をホウジロザメに付託して勝手におびえているのであって、海の生物たちはホウジロザメをそのようには思ってないのかもしれないが。

我が身の死との距離感こそが恐怖を作り出すのであり、サメからもっとも遠い地上にいる私は今、自らが望めば、好きなだけその恐怖を自家培養できる。そんな私にも死は確実に近づいてきてはいるのだが、それはそれとして、私はいまの段階からやがてホウジロザメに襲われるまでの時間を、好きなようにもてあそぶことができる。

サメに襲われる事態は、その運命下の動物たちにとって、常に突然の死の到来であるだろうから、そこに恐怖の介入する余地はないだろうから。だからこそ動物の生は突然の連続で、記憶をもてあそぶ余地がきわめて少ないので、彼らは文字通り生きて死ぬ。だからすべてが(死ですら)ほぼ「歓び」であるという感触を、ベルクソンドゥルーズの言説からは、感じ取れる気もするのだが。

地上の人間の見る彼らの身体イメージやそれにともなう恐怖なんてまったく「今」ではない。我々はただ恐怖の内側にいるだけで、そのスクリーンの投影を眺めているばかりで、動物たちと同じ地平には一秒たりとも立てない。

巨大な木を見上げるときにも、それに似たことを思うときがある。巨大な木のイメージを見るのは我々だけで、木は自らをそのような姿とは認識していない。木は木としての生死を生きていている。

(木はもしかすると、生に掛かる時間が人間と違うように、死に掛かる時間も違うのかもしれない。突然の死が、木に訪れるとしたら、その「突然」の時間が、人間のそれとは違う。ある程度じっくりと流れるような「突然」をもって木は死ぬのかもしれない。)