夏時間

オリヴィエ・アサイヤス夏時間の庭」をDVDで観る。フランスの著名な画家である亡叔父の遺産を引き継いでいた母親が亡くなり、叔父の作品や自宅にあったコローやルドンやアールヌーボー家具などを含む資産を相続せず美術館へ寄贈することにした三兄弟の話。叔父が現役だった時代(まだ文化大国フランスが名実共に「強かった」時代)を母親は同時代として生き、叔父の死後もその時間を変わらず生きてきたとも言える母親だが、そのような生き方、考え方が、息子達の世代にはすでに通用しないこと、彼らがすでに別の時間を生きていることを、言葉にこそ出さないが母親は充分に理解しており、そしてあっけなくこの世を去ってしまう。残された子供たちは、一度は家と遺産を自らの力で守ろうとするも、フランスを拠点に生活しているのは長男家族だけで、長女はアメリカ、次男は北京を拠点に今後の生活を立ち上げていく予定だし、また金も必要で、このままでは多額の相続税対象となる家も遺産も結局はすべて売却することになる。やがて鑑定士や弁護士や美術館関係者がやってきて絵や骨董を運び出し、空き家となった家もやがて売却されていくだろう。終盤、空き家となって買い手を待つばかりの家に、長男の娘が仲間を連れてやってくる。大音量で音楽を流し、裸で川を泳ぎ、寝そべったりマリファナを吹かしたり、思い思いに過ごしている。

 

誰が悪いわけでもなく、何かの思惑や企みがあるわけでもなく、如何ともしがたい、どうしようもない時間の流れの中で、それぞれの立場で、それぞれの人々がそれぞれに何かを決める、あるいは何かをあきらめる、小津の「東京物語」みたいに、残されたものたちが、自らの立場のなかで出来る事と出来ない事を粛々ときめて行動するばかりだし、そこには後悔も満足もかなしみも無常観もあるかもしれないが、それもまた時間の経過によって消え去ってしまうだけのことだ。出来事が淡々と、というよりは、あえて少し引いた距離間で、何の意図もなくただそのように撮られたという、地味で冷静な作品。そうだなあ、そんなものだろうなあ、ほんとうに、生きていると劇的なことなんて、何もないのだよなあと思った。それでも長く家事手伝いを勤めてきた老婆が、息子の自動車で最後に家の様子を見に来て、そのあと息子と抱擁して別れる場面とか、別に何でもない場面なのに、やけにしみじみといつまでも記憶に残る。(終盤で、あの婆さんにあんな息子がいるんだとか、娘の彼氏はあいつか、などとわかるあたりで、ふいに世界-⁠-⁠時間と空間-⁠-⁠がバっと広がる感じがある。)

 

 

続いてホン・サンス「正しい日間違えた日」を観る。前に観たのは一年半くらい前だけど、ホン・サンスは本作に限らず再見するのがじつに面白い。そしてこれもあきれるくらい、いつものことだが、この人が作る話の登場人物は、主人公が大抵「映画監督」か「映画関係者」であり、そして「自分がその業界や仲間内においてはそれなりに一目置かれている、超有名とまではいかないが、そこそこ偉くて、一部からは尊敬されている」あるいは「そう思われてもおかしくはないと薄っすら自覚している」ような人物である。さらに、その人物は女性が好きで、ことに若い女性が好きである。ふと見かけた女性に、思わず心奪われてしまうことも珍しくない。あわよくばそんな女性に近付きたいし、言葉を交わして知り合いになることができたらと思いもする。だからその女性が、たとえば映画に興味があって自分の名前を知っていたりするなら、それは僥倖だしそんなチャンスは是非有効に活用したいと思う。つまり、いい感じで承認欲求のふわふわした波間に漂っている、多くの男性としてじつにありふれた、自分の心に手をあてれば誰もが思い当たるような自意識やスケベ心をもった凡庸で一般的な人物である。

 

彼は、偶然出会ったキム・ミニにどのように話しかけ、アプローチして、自分の身元を上手く明かし、少しずつ懇意になっていくのかを手探りしながら行動する。行動しながら考えている。とはいえ物事はそう上手くは行かず、一寸先は闇だし、どんな言葉が彼女を喜ばせ、どんな言葉が彼女の心を遠ざけるのかはまったくわからない。登場してくる周辺人物たちも、彼ら彼女らがキム・ミニにとってどんな関係のどんな存在なのか、どのような距離感で彼らと接することが、最終的にキム・ミニとの距離感にもっとも効果的なのかも当然わからない。

 

この映画は、主人公の映画監督がキム・ミニと偶然出会ってから翌日の映画上映シンポジウムの会場に至るまでの行動パターンが二通りのバリエーションで繰り返される。そのバリエーションが「正しい/⁠間違い」を意味しているとは言えるのだが、それにしてもこの映画をみて心からあきれ果てた気持ちにさせられるのは、「多くの男性としてじつにありふれた、自分の心に手をあてれば誰もが思い当たるような自意識やスケベ心」をここまであからさまに肯定的に、厚顔無恥にいけしゃあしゃあと描ききることができるものか…という点である。

 

この映画の二通りのバリエーションで、主人公はパターン1においては冒頭にも出てきた映画関係の女の子から最後に愛情のこもったハグを受けて終わる。そしてパターン2においては、明け方の路上でキム・ミニから両頬にキスされてその日は別れ、翌日も笑顔で再会し、自作品を鑑賞中のキム・ミニを置いて彼は満足気に一人で立ち去る。そんな二つのエンディングをもつ。…要するに、どっちも悪くないのだ。たしかにパターン1では意中のキム・ミニを逃してしまったけど、別にそれでもいいじゃないかおまえ、と言いたくなる。でもこの映画は一度エンディングを迎えたあとに、平然と「キム・ミニさんともっと上手くやるにはどうすれば良かったのだろう?」という妄想(いや…妄想かどうかわからないのだが)を、延々とはじめて、

最終的にキム・ミニさんと上手い感じになれさえすればその世界では万事OKであるという前提のもとに、ほぼ同じシチュエーションの中で、ここぞというときに他人の前で泥酔して平気で全裸になったりもしてしまう。無関係なヤツの前でそういうことをやってもキム・ミニから嫌われなければ別にOKだしむしろ良い流れを呼び込める、というか、最後に辻褄を合わせることができるとわかっているから出来ることなのだ。その無神経で図々しい態度には、ほとんど戦慄させられると言っても過言ではない。

 

とはいえ、ほんとうに「最後に辻褄を合わせることができるとわかって」いたのかどうか…それはそれで、ちょっと違うようにも思われるのだ。その意味でパターン2が、そこまで結果前提で進んでいるようにはあまり思えないのだ。そこがまた、なかなか複雑というか、簡単ではないのだが…いずれにせよ、やはり最後にそこそこ上手く成果をゲットしていくあたりが、結果的には非常にむかつくというか、もやもやと嫉妬心に駆られるというか、ふざけんな…という思いを、どうしても禁じえないのであった。