前段階

誰かによる描きかけの絵を偶然見かけたとき、それがまだ下地の地塗り段階だったときなど、画面のあまりのキレイさに息をのむことがある。四角い画面に、いくつかの色面が、速度感をともなった大雑把さで、ひしめき合うように配置されているだけで、すでにそこには描かれるべきことがもう完了されたかのような印象をもつことさえある(そして大抵の場合それらの絵はさらに手が加わるにつれて当初の魅力をうしなう)。

ちょうどそんな下地としての魅力に似た何かとして、先日観た「凱里ブルース」で、遠くから聴こえてくるバンド演奏の音も、それがまるで描きかけの絵を見たときのように、魅力的なテクスチャをもった音の記憶として、今になっても思い起こされてくるのだ。ドラムとベースとギターの、まだアンサンブルを結ぶにいたらない、ただのアンプリファイズされた振動にすぎない、あの中低音の響きにこそ、バンド演奏によって放たれる音の、下地としての魅力はあるのだなと。

まだ成り立つ前の状態で、各素材がその役割を担う前の状態で、その場に置かれっぱなしになっている。これだけで既にもう終わっているはずなのに、どうしても仕事をしなければ気が済まないのが人間というものだ。

だらだらとした演奏を、聴きたいと思うことは多い。しかしそのニュアンスが難しい。単にだらだらと演奏が続いていれば良いわけではない。むしろ演奏前が良い。演奏前の、各楽器を皆が各々調整している段階。いよいよこれから練習する、まだその気分さえ未だ高まりきってない、誰もが自分と楽器のコンディションや感触を探り合いながら、自分に引きこもっているときに、その空間をうすく占めている音の断片。そういうのがいつまでも続いていてほしい。