「これは絶対面白いはず!」「誰がなんと言おうが、これはうつくしい!」と、ほとんど根拠なしに、その美的価値を信じられるというのは、それだけで美徳だし、能力だ。その幸福感をともなった思い込みの力をうしなってはダメだ。

このこと自体は、ほとんど信仰と見分けがつかないものだ。信じたいから信じるとしか言いようがない。しかし、この信仰心こそが大事だし、たくさん勉強したり経験することの意義は、何よりその根源的信仰心をうしなわないことにこそあるだろう。

たくさん勉強したり経験すると、陰謀論にだまされなくなったり、カルトに引っ掛からなくなったりする、かもしれないが、それはそれとして、まず何よりも信仰心をうしなわないことが、より大切なことだと思われる。

「これは絶対面白いはず!」「誰がなんと言おうが、これはうつくしい!」の無根拠な信仰(自分自身の内側に生じた歓びの感覚を信じること)は、陰謀論を信じてしまうこととは似て非なるものである。

(もちろんひたすら自己肯定的なだけではダメだけど、年齢を重ねることで自己肯定的でいるのが難しくなると最近つくづく感じる。それが何かのきっかけで反転すると、所謂ろくでもないおっさん、になってしまうのかもしれない、とも…。)