ツェッペリン様式

レッド・ツェッペリンを久々に聴いていた。ツェッペリンって、音楽でもあるけど、それ以上に、一つの発明だったのだな、、と。もともとのブルースの、あるセンテンスの繰り返しによって何かを語り歌うというブルース手法の、ある意味最終形態の発明だったのだろうと。それが、あれほどの様式性をもったというのが、つまるところ表現形式はどうしても、この隘路へ辿りつくということを示してもいるのだが、それにしてもレッド・ツェッペリン以前に、レッド・ツェッペリンのような音楽はなかった。いや、もちろんレッド・ツェッペリン的なサウンドはそれ以前にもたくさんあっただろうけど、たとえばBlack Dogのような、ああいう「ブロック」ごとの反応を求めるような、その単位一つ一つに価値があるのだと確信しているような、音楽の要素がそれら一単位の集積であること、それをそう信じろと強要するかのような、ああいう音楽は、レッド・ツェッペリンによって、はじまったのだと思う。

もっと言えば、うーん、これって能だよね、、と思うところもある。あらかじめわかっている枠内で、沸き起こることを待ち望んでいる格好自体が、観能も一緒ではないかと思う。待ちわびているものに対して、返ってくる構造は、レッド・ツェッペリンも能も一緒ではないかと思う。というか、音楽にはじめて様式性をもちこんだのがレッド・ツェッペリンということなのか。様式性というのはほとんど人から好かれないけど、能のような場においては様式性がかろうじて糸一本でそれを支えているようなところもあり、そういうときにはそれなりの迫力をともなうものだ。たぶんかつてのレッド・ツェッペリンが最強にインテンシティ高まったときにあらわした様式性こそが、それに近似していたのではないか、

それにしてもレッド・ツェッペリンというバンドの一体感のすごさ。誰も「こうするからこうなる…」などという予見を、一切もってないまま、目配せも事前すり合わせもなく、いきなりいっせいに演奏して、それが、たまたまそうなってる、そうとしか思えない物凄さがある。こんなことが可能なのかという驚きそのものが録音されてる感じがする。今さらどうこう言う話でもないのだけど、この音楽には聴くたびごとに、一々どうこう言いたくなるようなものがある。