夜の人々

Amazon Primeニコラス・レイ夜の人々」(1948年)を観る。

犯罪映画。まるでドローンで撮影したかのような、主人公らを乗せた車が走っていくのを俯瞰でとらえた冒頭のシーンがカッコいい。

銀行強盗は、銀行に押し入る役割と、車で待機する役割に分かれていて、銀行から脱出する彼らを車に乗せて一目散に逃げ去るまでが一仕事で、そういう犯罪映画をこれまでいくつも見た。

銀行を下見するために、指輪商の男と共に両替に行く、白々しい社交辞令と、襲撃計画の想像が呼び起こす緊張と不安が錯綜する。その指輪商が、決行時間になってふいにあらわれるときの緊張と焦り。犯罪映画のこういう場面も、これまで何度も見た。

埃っぽい田舎道をひたすら走って、薄汚れたモーテルで一夜を明かす。いつ警察がやってきてそのドアをノックするか、その予感におびえる毎日。安っぽい食事、安っぽい簡易結婚式場での、安っぽい婚礼、果てしなく続く長距離バスの移動。しかしいったん心を決めた二人にとって、それは乗り越えるべき障壁だ。女工作員のように怪しく危険な目つきの前半と、その相手に添い遂げようと腹を決めた後半で、見ちがえるほど雰囲気の変わるキャシー・オドネル。

一度でも仕事をした仲間とは、そう容易に縁を切れるものではないし、また過去の因縁の如何を問わず、かつての知り合いがそう簡単に自分らを救ってくれるわけでもない。この世の中は、非情でもないし優しくもない。ただ、ありのままに、ただ目の前の景色がそのままにあるだけで、自分らにとって何の意味もあらわさない。

次第に追い詰められていき、可能性が一つずつ消えていき、持ちこたえることのできる希望の種が目の前から無くなっていく。

裏切者の顔、密告者の顔、いや、糸一本でこの世につながっている自らに、とどめを刺してくれる実行者、その顔というものがある。この顔が、彼らにとどめを刺し、この物語を終わらせてくれるのだと、それを納得させてくれるような、ある意味で盤石な、納得を引き出すしかないような顔というものがある。それは悪意の顔ではなくて、彼や彼女もまた、自らのことに必死なのだと、それを納得するしかないような顔である。こういう顔も、犯罪映画において何度も見た。

本作におけるその顔は、かつての共謀者と関係する女だ。私の運命を決定してくれる、もはや手の施しようもない、これまでの顛末に、完全なる結末をあたえてくれるであろう、その顔。