愛しきは、女 ラ・バランス


ずいぶん前にVHSを買ってあったのをやっと今日観た。この映画が日本で公開されたのは一九八四年。僕が元々、一人で映画館に行って映画を観るようになったのもちょうどその頃の、中学二年生くらいのときで、当時何かの映画を観たときにこの映画の予告編がやっていて、ものすごく観たいと思ったのに、観に行かなかったのだ。それを約三十年経って、ついに今日ようやく観ましたという。


あたりまえだが、ナタリー・バイの姿が、まさに中学生時代の僕が観たときの姿そのままだ。服を脱がされて、細い上半身があらわになり、そのままベッドに倒れこむシーンを見たときの衝撃が、まるで昨日のことのようである(笑)。個人的にはナタリー・バイだけ観ていられれば幸せであるが、ヒモのチンピラ役のフィリップ・レオタールや、刑事役のリシャール・ベリなど、犯罪アクションものの役者の顔として、どいつもこいつもロクデナシ的な外見が完璧過ぎて素晴らしい。あとギャング側もそうだけどむしろ警察側の連中が全員腐りきってるというか、まあ、ナタリー・バイとフィリップ・レオタールの追い詰められていく悲壮感をあらわすためなのだけれど、それでもあのおっさん最後派手に死んでくれないかなと思ってたのに死ななかったのでむかついたりとか、全体的にかなり面白かった。傑作でした。


ちなみに自分が今までで一番映画好きだった(映画が特別なものと思っていた、映画というシステムそのものへの偏愛があった)のが、中学校のときで、高校生くらいになったらその熱は冷めたというか、映画というものを人並みにしか思わなくなったように記憶する。しかし、いわゆる「名作」とか「重要な作家の作品」とかを体験するのは高校生以降だ。でもそれは結局、それを「名作」とか「重要な作家の作品」だと思って観ているので、本当はその時点でもう「死んでる」わけで、そうじゃない、中学生当時の気持ちをずっと持ち続けることができれば、僕は本当に映画好きな人生を歩めただろうけど、結果的には、そうじゃなかったなあと思う。


中学生のときは、映画の作家性などというものなど、想像したこともない。ほんとうに毎回毎回、じつにしょうもないものばっかり観ていた。なぜなら、いくつもいくつも公開される映画のほとんどがしょうもないものばかりで、こっちはそれを事前に選ぶような知識もゆとりも無いし、単なるカンで、何の疑問も感じず観てるだけなんだから。観終わってからも、それを面白いとかしょうもないとか、そんな感想を思う余裕すらないのだ。なにしろ内容以前に、映画を観てるだけで興奮しているのだから、実に簡単で安上がりな坊やだったのだ。


でも、しょうもない映画もあれば、しょうもなくない映画もあって、傑作とか名作もあるだろうし、素晴らしい作家性にあふれた映画もあるだろうけど、でも、今でも思うけど、いいとか悪いとか、そもそも映画の作家性とか、そんなにありがたいものなのだろうか?そんな特定の人間のことなんか、どうでもよくないか?暗いところで映画がワーッとやってるだけで充分ではないかという。


…というか、本当ならそうやって、映画がワーッとやってるのを浴び続けているうちに、一本か二本くらい「とんでもないこと」を体験して、そこから事後的に作家性みたいなものを見出すということなのだろう。ということは結局、僕が中学生のときに「とんでもないこと」に出会えなかった、というだけのことか。