ボウイ&キーチ

DVDで、ロバート・アルトマン「ボウイ&キーチ」(1974年)を観る。ちょっとうっとりさせるような、湖畔を進むボートの情景から物語が始まる。こんな優雅な脱獄があるだろうかというような。

犯罪者の脱獄、逃亡、銀行強盗、隠遁、突発的に生じる二人の恋愛関係、そして追い詰められ、最期は息の根を止められるという、まるで歌舞伎のお題目のような、決まりきった流れに対して、映画はおそろしくだらだらと、そういうこととは無縁な、けじめもまとまりもないものを映しとり、録音し続けているかのようだ。

この映画は、なにしろラジオの音、ラジオ番組がひたすら喋っている物語やお話を聴き続けるよりほかないようなものだ。あるいはコカ・コーラ、埃っぽい田舎の路肩にも店にも、いたるところにコカ・コーラの看板があり、お店にはコカ・コーラの入った冷蔵庫があって、5セントだか払って、彼らは水のようにコカ・コーラを飲む。彼らが何を考え、どんな行動をし、どんな風に運命の先へと運ばれるのかよりも、彼らがいったい何本のコカ・コーラを飲んだのかを数えたほうが、この映画を見たことの証明になるのではないかとさえ言える。

キース・キャラダインシェリー・デュヴァルがはじめて身体を重ね合わせる場面では、ラジオ番組が「ロミオとジュリエット」のラジオドラマをやかましく鳴らし立てている、彼らのキスシーンに合わせ「かくしてロミオとジュリエットは・・・!」の劇的な下りが三回くらい繰り返され、これはあからさまに登場人物の彼らを愚弄、嘲笑するかのようなシーンである。

主演キース・キャラダインの、よく言えば天真爛漫、要するに愚鈍で馬鹿で凡庸きわまりない、そのへんにいる若者の在りよう。さらに輪をかけて救いようもないほどに「そのまんま」の素朴さを露呈している田舎娘、シェリー・デュヴァル、この二人の、いわば演技とか芝居ではない、そのままの「どうしようもなさ」をもって、この映画はこの二人が、あの有名な銀行強盗のカップルであると示す。このような二人が、連日新聞の一面を飾りマスコミを賑わせ、あのセンセーショナルな最期を迎えたのだと、

いやこの映画は、そんなことを言ってるわけではないのだ。暗闇の中に凄惨さが明滅するかのような自動車事故のシーンにくらべて、ボウイの最期はなんとあっけなく、さらにその瞬間は、劇的な最期など決してありえないと告げるかのように、ことさら意図的に遮蔽されていたことだろうか。

そもそも後半を過ぎたあたりで、これは何も「ボウイ&キーチ」なるタイトルの映画でなくてもねえ…と思ったりもした。主人公二人だけの映画、というわけでもないのだ。キーチが正しく嗅ぎつけ嫉妬するように、これはボウイと強盗一味の連帯関係を描いた話でもある。またボウイがうしなった自らの可能性を悔いつつ懐かしむ話でもある。またボウイより年齢を過ぎてますます行き場のないボウイの仲間たちを見届ける話でもあるだろう。いやそれ以上に、あの停滞感、あの止まった時間、あのキルト毛布の肌触りのほかには何も感じられないような、季節がもたらす渇きの感触こそが、この映画の質感であろう。

この時代の映画に特有な、最初と最後のなんというカッコよさか。タイトルの出方、ラストシーンのエンドクレジットがせり上がってくる瞬間に、ああ・・・っと息がもれる。