琳派

琳派」の絵そのものは、一流どころからそうでもない作品まであるとして、いずれにせよ様式性のきわめて高い、そのマニエリズム自体の面白さを観るものだと思うが、今回あらためて見ていて、この様式とはまず、モノの物理的な大小を問わずにあらわすことを目指して、そのために作られたのだろうか、などと思った。

大鏡を使って見ているかのような、蔓のうずまきや葉の輪郭が徹底的に細密に描かれてはいるが、そのスケール感を画面全体に横溢させるわけではなく、画面全体がもつスケール感とはズレたまま、各描写がなされている。全体の情景を、ぼーっと見ているときの感覚と、葉や蔓のひとつひとつを丹念に見ているときの感覚を、平面上でひとつに合わせ込もうとした結果が、この様式になるのではないかと。

但しこれは草花図のようなものを見た上での印象で、琳派の様式それ自体はもっと強い様式として、ある意味陳腐化するのだとも言えるが。そもそも琳派の始祖たる尾形光琳が、ほぼ「描写」の要素をもたない感じで、むしろ酒井抱一によって発展させられ打ち立てられたものが、琳派として主要な芯になったのかもしれないが…。

以下はウィキペディアで確認。酒井抱一は1761年生まれ。尾形光琳の死去は1716年なので、抱一にとって光琳という画家はそのくらい遠い昔の人だが、しかしそのエッセンスを着実に掴み、発展させたということになるだろう。抱一は1806年に「光琳百回忌」を催している。その門下である鈴木其一は1795年生まれ。子供の頃から抱一に弟子入りしていた。その其一の仕事を、村越其栄(1808年生)や向栄(1840年生)が継承する。村越向栄は1910年くらいまで千住にあった学校の初代校長を勤めてもいる。

村越向栄の没年は1914年であり、向栄が活動出来たあたりまでが、日本がかつての日本だったところだろうか。琳派としては、江戸から明治にかけての約二百年間。そのあいだにだけ可能な、出来事だったと。