DVDでアッバス・キアロスタミ「クローズアップ」(1990年)を観た。日本公開は1995年、たしかにその頃だった。自分のキアロスタミ初体験が本作で、渋谷の映画館で観て以来だ。当時は「とんでもなくすごい映画だ」と思った。ここに仕掛けられている事実と虚構、騙す側と騙される側、演技と非演技の、複雑に絡まり合って混沌としたまま、一つの作品にまとめられていること自体が、きわめて刺激的で批評的な、過激な作品に思えた。
ただそれを既に知ってしまっている(大昔に観て受けた衝撃をまださほど忘れてない)状態で、こうして再見すると、当たり前かもしれないけど、あらためて大きな衝撃を受けるということはないし(「友だちのうちはどこ」や「そして人生は続く」と比較するならば)、フェイク・ドキュメンタリーとしての構成は思いのほかシンプルで、主人公である彼の裁判における独白が映画の主軸にある印象で、あらためて観なおすことでの新たな発見はさほど多くはなかったという印象だ。とはいえ未見の人は絶対見るべきで、強くお勧めしたいと思う。演じる(騙す)ことが、それを見守る者たち(騙される者、あるいは観客、あるいは別の演技者)によって支えられている構図が、ここには鮮やかに示されている。「騙した」ことで罪を問われる主人公も、騙された家族も、たぶんある「諦めと納得」をもって、その顛末を見届けたのだろうと思う。その言葉にするのが難しい微妙なニュアンスが映画の内外に沁み渡ってから、最後に「本物」も登場してあらためて関係者らに和解の気配が漂い、そこに寛容さのような、人間の緩い連帯のような幸福感が、映画のなかに満ちていくのだ。
ちなみに以下は個人的な記憶にまつわる話に過ぎないが、冒頭のシーンと中盤以降のシーンとが、時間の一致によって連動するような場面がたしかあったはずなのに、それを見つけられなかったことが心残りだ。スプレーの空き缶が、下り坂をガラガラと転がっていく、この「音」によって二つの場面がつながる、そんな瞬間が、たしかあったはずなのだが…。
いや、正確に言えば、僕は「そんな瞬間」をかつて見た記憶はないはずだ。1995年当時、知り合いから「キアロスタミのクローズアップが絶対に面白いから見ろ」と言われて、僕はいそいそと一人でそれを観に行き、たしかにすごく面白かったので、そのように感想を伝えた。すると相手は「スプレーの空き缶が、下り坂をガラガラと転がる音が、後半において再び聴こえてくる」場面について話しはじめた。僕はその場面を記憶していなかったので、それを伝えると、あの場面を見逃すとは…と相手から呆れられ、それが悔しく忸怩たる思いだったのをおぼえている。
しかし今回もその場面を見いだせなかった。となると、いったい本当にその場面が存在するのかが怪しくなってくる…。とはいえ、如何にもそういう場面が含まれてそうな感じは充分にする。というか、あのあと結局、僕はその場面を見たのではなかったか?ということはこの映画を観るのは今日が二回目でなく三回目では?という気もする。でも肝心の場面を今日見つけられなかったのだから、やっぱりおかしいじゃないか、となる。