死んでます

切られてしまった木の、切り株を見て、それが生物から物質へと変わった姿だとは、あまり思わない。木としては死んでしまっていたとしても、それはまだ生物的でもあるし、いや物質だと言われれば、そうなのかと思うかもしれないが、どちらとも言える気がする。

おそらく、どちらに見えるかは、どちらでもいいことに違いない。今この木は切られている。その状態が問題とされている。その木が生命として、今どうかについては語りえない。語るなら、何を根拠として語るのかを決めなければならない。

死んでいるように見えても、切り株はまだ生きている。そういうことはある。しかし、今ここで言いたいのは、死んでいるようだが生きているとか、生きているようだが死んでいるとか、そういうことではなくて、もし切り株がその生命活動を終えていたとしても、それはそれで、切り株はまだ存在していて、それは死んでいるが、今後、生きてしまうことがありうるだろうということを、木の切り株は、示しているとも言える。死ぬことの後に生きることがつながる可能性を、外見的に表現しているとも言える。

人間は死んでも切り株のような外見にはならないが、物質として完全に消滅しきってしまうわけでもない。切り株とはまた別の流れで、死んでいるが、また生きてしまうこともありうるのだと思うこともできる。

これを信仰とか精神的なものではなくて、まあいわば客観性のような言葉の近似において感じ取りたいというか、「私の感じ」の外側にある唯物的実感のようなものとして見出したい。