外を歩いていて、もしかすると心のどこかで、常に感じているかすかな不快感があるとしたら、それは通りの壁だの塀だの店のシャッターだのに、政党とか政治ポスターの、人物の顔写真が貼ってあるのが、たまたま目に入ったときのそれだと思う。よくよく考えると、ああいうものをいつまでも、人目につく場所に貼っておいて心安らかでいられるのは、ほんのわずかでもあれを醜いと感じないとしたら、それはやはり感覚的麻痺ではないか。

とはいえあの手のポスターに教えられることがあるとしたら、人間の顔というものほどおぞましくてグロテスクなものは、この世界にそう沢山はない、ということかもしれない。あの大きさ、あの目と鼻と口、あの皮膚、あの脂、あの粘液、あの温度、あの立ち昇る何かをもって、こちら側の感覚器の表面に、べったりと貼りついてくるような、その「表情」、その精神異常者の「笑顔」、それを壁のいたるところに何枚も、繰り返しで送り届けてくる、正面からとらえられた顔、なにしろこれほど奇怪で人の精神の支持層を揺るがせるような不安を呼び起こすイメージはない。吐気を催すおぞましき匂いを、頭部を抑えつけられたまま無理やり嗅がされる状態に近い。本来なら呼吸を止めて足早に通り過ぎたくなるような、仮に知覚したなら、その後できるだけ丹念に記憶の隅々まで消去してしまいたい、時間を巻き戻して、私はそれと決して出会わなかったことにしたい。

にもかかわらず、おそろしいことに、人間は何にでも慣れてしまえるのだ。現に自分も、ある程度は慣れている。ふだんは何も考えずに、そんなポスターがいたるところに目につく通りを歩いて、そのまま平然としている。一々考えをおこして、ことさら騒ぎ立てなければ良いだけなのだ。それでどうにかなるものなのだ。