読む

本の読み方には、いまだに慣れない。もう少し正確に言うなら、本を読んでいる時間と、それをしている自分の感じている時間との折り合いのつけ方に、いまだに慣れない。本を読んでしまっている自分に戻ってきた瞬間のいたたまれなさに、いまだに慣れないと言ったほうが良いか。その分裂したふたつの時間を回収するやり方が、いつまでたってもぎこちなくて、自分自身のやり方に落ち着いてなくて、あまり人目に見せられないみっともなさをともなっている。説明できているとは思わないが、つまりは未練がましさをいまだに引きずっている。本を読むことがいまだに自分にとってふつうではない。

休日に丸一日、ほぼ外出せずに本を読んでいるとしたら、一日のどこかで必ず、ある一つのクライマックスはある。あるというより、それを作り出したくなっているのだと思う。だから無意識のうちに波の高まりを自覚している。本来なら、それはなくても良くて、ずっと凪でもかまわないはずなのに、それに耐えられないものがある。日が暮れてきて、部屋が薄暗くなってきて、ガスコンロの上に立ち昇る湯気が濃くなってきて、これから食卓に上がるものの匂いが漂うからかもしれないし、明日の朝からまた出勤のモードに切り替えなければならないからでもあるだろうけど、とにかく本がこちらに訴えてくる問題は、こちらの都合などおかまいなしに、それの解決に至るまでの見積が難しい、途方もない何かであって、それを休日の枠内に収まるような、きりのいいのものに解釈してしまうのはどこかでおかしい。ある一つのクライマックスをおぼえるなら、それは結局、自分自身を読んでいるに過ぎないともいえる。

映画の二時間や、音楽の一曲は、その点助かるところはある。音楽は最近、そう思うことが多い。いきなり大音量で一曲だけ聴くようなことが多くなった。まるで再生装置の確認のように、それを試し聴きするようなやり方で聴くのだ。突拍子もなくいきなりそれを聴いたようにして聴くのだ。