強者

浅田彰島田雅彦の1988年頃の対談「天使が通る」などという、古い本を読んでいた。

浅田 (…)やはり<強者>と<弱者>の問題というのが重要だと思うんです。これはさっきのファシズムの問題ともつながるけれども、ニーチェの<強者>というのを普通の意味での強者、例えばヘーゲルの意味での強者と徹底的に区別しないと、プロトファシズムみたいになってしまうわけです。実際、普通の意味でいうと、ニーチェの<強者>というのは物凄く弱い。ニーチェは能動的なものと反動的なもの、肯定的なものと否定的なもののおりなす系譜をたどっていくのだけれども、なぜか世界史においては必ず反動的なもの・否定的なものが勝利し、能動的なもの・肯定的なものは全面的に敗北しているわけです。これはなぜかというと、<弱者>の側が力で勝っているからではなく、<弱者>が<強者>に病を伝染させ、それによって<強者>の力を差っ引くからであるというんですね。これはほとんど免疫の話になっているんですが、たまたま『ニーチェの抗体』という変な論文を書いた人がいて、八三年ぐらいに既にAIDSの問題が出かかったときそれとの絡みで書かれた、ちょっとプリテンシャスで思いつき倒れの論文なんだけども、面白いことに、ニーチェの<強者>というのは免疫不全だと言うんです。何でもあけっぴろげに受け入れてしまう。それいつけ込んで有毒なウィルスを送り込むのが<弱者>なんです。事実、その論文には引いてないけど、ツァラトゥストラも、最高の存在というのは最も多くの寄生虫に取りつかれると言っている。全くオープンなまま常に変転しているから、それをいいことにして寄生虫がバーっと入ってきて、ほとんどAIDSになってしまうわけです(笑)。だから「<強者>をつねに<弱者>の攻撃から守らねければならない」。

ニーチェ―超人のオペラ・ブッファ」100頁~

その後何十年かかけて自分は、少しずつだけどしっかりと<弱者>の作法や文化に親しんでしまったのでないかと…こういうのを読んでハッとするところはある。

自分にとってニーチェ的なものは、誰もがすでにわかっていたはずで、当然のようにそうやって生きていたはずのことで、いついかなるときでも、心の中に「哄笑」の声を響かせることのできるひと。それが自分にとっての、自分がイメージする<強者>だ。ならば今でもまだ、自分の中にそれが残っていると言えるか?と、自問したくなる。