ションベン・ライダー

録画で相米慎二ションベン・ライダー」(1983年)を観る。中学生、そしてヤクザ、あと教師。映画の中だけ、まるで夢のように、彼らが縦横無尽に動き回っている。しかしこれは映画だから、動き回っているのは登場人物だけではなくて、登場人物たちを捉えている感覚的なもの、彼らの動きを察知するときの、瞬間ごとの視点というか気づきの細かいショックのようなもの全体として、始終うごめいている。

何かが動く、しかしその対象を明確に言いあらわすことができない。無数のうごめきのようにも感じる。しかし動いているのは他ならぬ登場人物のAとBとCだ。それは自明であるが、それだけでは説明にならないのだ。

画面を観ながら、愚かしいことばかり思い浮かべている。中学生ってこうだったか、教師ってこうだったか、ヤクザってこうだったかと。そのような属性に何の意味もない。歴史も時代も関係ない。それはわかっているのだが、とりあえずそのような言葉にすがっていたくなる。もし各属性がこんなだったら、この世がどんなに良いことだろうと思っている。

 

ーーー「悲しみを利用する連中」というのが、この世には存在すると、今読んでいる本に書いてある。

「悲しみや悩みに乗じて権力を築く連中がいる。他人の力が弱まり世界が暗くなるのに乗じて権力を築く連中がいる。連中は、悲しみが喜びを約束するかのように、しかも悲しみが喜びであるかのように振る舞う。連中は、悲しみの礼拝堂、服従と無力の礼拝堂、死の礼拝堂を建立する。連中は、たえず悲しみのシーニュを発しては押し付ける。圧制者と聖職者の非道のカップル、生命の恐ろしき裁き手だ」(『批評と臨床』)

ドゥルーズの哲学」小泉義之 (講談社学術文庫 146頁~)

 

本作の中学生、そしてヤクザ、あと教師は、そのような連中とは関係がない。悲しみとか、悩みとか、他人の力の弱まりとか、世界が暗くなることとか、それらを利用しようとはしない。そのような狡猾さをもたない。そのようなおざなりな場所に自らを定めない。彼らはただ単に、まるで物質のように、ドボンと、水に落ちるだけだ。