コロンバス

Amazon Primeでコゴナダ「コロンバス」(2017年)を観た。なかなか難しい、どう捉えたら良いのかがわからない映画だった。建築物よりも、それらを取り囲んだ豊かな森林風景こそが印象的だった。

コロンバスという地域があり、図書館や礼拝堂といった住民の生活に根差した施設・環境としての近代建築がある。そこに暮らす建築好きの女性がいて、死に瀕した建築研究家に付き添うためここを訪れた男性がいる。彼女と彼が出会って、お互いの事情を知り合い、彼女や彼の事情や悩みや思いは色々あるとして、しかし彼ら彼女らが近代建築や自分やその他諸々について話す内容は、ある意味で他愛無いところがあるし、個々の事情や建築への思いや考え方と、そこにある近代建築そのものは、当然ながら何も関係ない。

その「何も関係がないこと」を、見るべきだっただろうか。建築物、そして風景さえもただそこにあるだけ、それを体験する人間や、建築家や、所有者や、文化や権威や貧富や社会なんかのすべてと無関係にただそうしているだけ、そうであってほしいとの思いも込められているだろうか。映画を観ていてそのようなことが読み取れたわけではないし、他に何か、取り立てて思いあたることもなく、ここに書くことも思いつかずに、推測で書いてるのだけど。