イメージ

福尾匠「眼がスクリーンになるとき」を読んでいる。ベルクソンドゥルーズによれば、生物は作用/反作用を行うシステムで、かつその関係が不確定(不確定性の中心)である。そのことを観念論ではなく経験的事実すなわち存在論としてとらえるために、ベルクソンドゥルーズは「イメージ」を持ち出す。イメージこそはすべての物、すべての作用/反作用と一体であり、イメージ=運動の同一性を概念化する。

イメージ=知覚ではない。イメージは存在する。知覚するものも知覚されないものも、共にイメージである。生物は知覚し、作用/反作用を行う、不確定性によって遅延が生じ、知覚が情動を生む。知覚は身体の外にあり、情動は身体の内にある。情動それは例えば痛みのことだ。痛みは身体の外にある知覚に対する「無力な抵抗」である。情動は身体の「開始されているが実行されていない運動」であり、身体の外的刺激に対する抵抗である。

…といったようなことは、何度でも同じような話を読んでみても、それで考えるたびに毎回、体の中が空っぽになるような不思議さを感じさせる。これらが、知覚論ではなくて存在論なのだということを思い出すたびに、足元から現実が消えていくような感覚をおぼえる。もちろんちゃんと明確にイメージできてはいない。何度読んでもはっきりしない部分は残る。しかしそれにしても、このことがなぜ「強く迫ってくる」ような印象を、今の自分にもたらすのかと思う。