死生観

大江健三郎が2010年頃のインタビューで、自身の「死生観」について以下のように語っていた。武満徹とか、安部公房とか、自分に近しい人々が亡くなっていくことで、自分自身の世界のところどころに、穴が空いたような感じがする。それはつまり、自分自身としてこの世界を認識していたつもりが、じつは友人や周囲の人々や同時代を生きる人々と共に、彼らと私とで一緒に世界を認識していたことに気付くからで、したがってその人が担っていた、自分が意識せずじつはその人を介して認識していたはずの世界が、その人が亡くなることで、自分から欠けてしまうのだと。

同時代を共有するとはおそらくそういうことで、今この世界は、自分ひとりで認識しているわけでは決してなく、私やあなたや誰かの様々な頭脳、様々な記憶、様々なクオリアを、お互いが分け合って認識し合っている。それを結果的に、この私の認識と思っているのだ。

これは、リアルで友人であるとか面識があるとか、そういう間柄や関係にかかわらず、今のこの時空を生きている以上、誰もがそうなのだろう。それゆえ、死者を送るというのは、喪われようとしている自分の一部を送るということでもあるだろう。

世界は今もあり、私の死後も続くが、あなたと私が昨日まで見ていた世界は消えるし、私の見ている世界もいずれは消えるだろう。しかしまた別の誰かによって、今後も世界が引き続くのは間違いない

(世界は「地」ではなくて「図」で、私やあなたの知覚が、あるいは身体(物質)が「地」である、すなわち世界は都度作り直される。)