母親がわが子を思う気持ちというのは、恋愛感情とかではない。子がはじめて母親を認識するときに芽生えるものが、のちの恋愛感情の基本的な土台を組み立てるのだとは思うが、母親がわが子を愛するというのは、本能とか遺伝子レベルでのインプットだとか、そんな大雑把な話ではなく、実際にそのメカニズムはどうなっているのかを、僕は知らない。しかしそれは個人差や環境の影響はあれど多くの母親が発動させる心の状態であることはたしかだ。キリスト教で云う神の愛とは、おそらく母親がわが子を思うときの心の状態をモデルにしているのではないかとも思う。それはユダヤの神=父なる神ではなく、弱き者を救う母なる神=キリストが説いた神(という現代的解釈)ということだが。誰もが神に愛されているというのは、たとえあなたがどんな人間であっても、あなたを生んだ母親によって愛されているということである。私は愛されていると自覚することが救いということだ。だから誰もが救われるはずであるという、でも僕にはこの考え方がとても二十世紀的なものに感じられる。二十世紀的な死への、せめてもの救済を試みた言葉のように感じられるのだ。二十世紀ほど、神の愛から見放された死がおびただしく重ねられた世紀はかつてなかったようにも思うからだ。
じつは人は誰もが母なる神から愛されているから、それによって救われるはずで、それは言い方を変えればその次元を超越することが誰も不可能ということでもあるが、それに対して「神の死」という考えも出てくる。二十世紀以降は基本的に、誰もが愛されているはずの世界は終わったことになっている。そのうえで愛というものへの解析がはじまる。交通とか伝達とか通信というものがその一端だろう。あるいは神の愛が、倫理や規範のようなものと解釈されるようもになった、という事だろうか。というよりも倫理や規範が成立する根拠として、かつての神的なものがまだ要請されるのだろうか。