TAR

MOVIX亀有でトッド・フィールド「TAR」(2022年)を観る。面白かった。以下ネタバレあり。

冒頭、ジュリアード音楽院での講義風景。アフリカ系の男子学生による「自分はマイノリティで、生涯に数十人もの子供をもうけたバッハを好きではない」との言葉に対して「バッハの音楽とバッハの男性的ポテンシャルの問題は別である」とケイト・ブランシェットは応える。バッハの音楽は、決してバッハの人物としての特質や属性をあらわしていない、音楽は答えでなく、いつでも問いそのものとして我々の耳に届くからこそ、我々の心を動かしうる。もしあなたがバッハの作品を、その音楽自体ではなくそれ以外の要素で判断するなら、あなたもまた同じように判断されるだろう、それでも良いのか?と、ケイト・ブランシェットは続ける。学生は納得せず、その後の展開に怒って、ついに教室を出ていってしまう。

この導入部をはじめとして、主人公の芸術に対する考え方や取り組みの姿勢、性格とか他者との関わり方について、観ている人々は大体のアタリをつける。こいつは信用できるやつなのか、イヤなやつなのか、映画のヒロインにふさわしいやつなのか。

ケイト・ブランシェットが演じる著名な指揮者リディア・ターがいて、その助手というか秘書役の女性がいて、オーケストラのコンサートマスターかつケイト・ブランシェットのパートナーでもある女性がいて、ベルリンの住まいで暮らす小学生の養女がいて、長年の付き合いがある副指揮者の初老男性がいて…。かなりゆったりとしたテンポで、彼女と周囲を取り巻く人々との関係性が描き出されていき、それにしてもこれほど悠長に進むならそれは長尺映画にもなるわなあ、面白いのか面白くないのか、なんだか判断付かないなあ、などと思いながら、最初は観ていたのだが、出来事ひとつひとつの描かれ方には厚みがあり、それらが立体的に噛み合ってきて、この手応え感はやはりなかなか凄いものだなと、ほとんどケイト・ブランシェットという役者の存在感にすべてが賭けられてはいるのだけど、それをこうして見守るのはたしかに得難いなと、しだいに面白いものを見てる気になってきた。

マイノリティであること、レズビアンであること、著名人であること、仕事を継続し、組織を運営していくこと、芸術の名のもとに厳然たるヒエラルキーは存在し、原則それに対して人は謙虚でなくてはならぬこと、逆にそれ以外のあらゆる要素に対して、人は怯んではいけないということ、しかしそのように思わぬ者もいること、必死の努力も空しく脱落する者がいること、職場や地位を失うものもいること、自らの命を絶つ者さえいること、芸術の名のもとに生きていながら、社会、組織、集団の論理やしがらみや気遣いや慮りを無視することはできない、でもそればかりでも立ち行かない、いずれにしても過去のある些細な何かをきっかけにして「炎上」は起こりうるということ、これまでの実績や地位は、以外にも脆く崩れ去ってしまうということ…

そういう話を、話としてだけ書き出すと、とてもつまらないように感じるし、つまりそういう今どきっぽい話題が主題の映画なのか…とも思って、途中やや引きかけたのだが、しかしそれがケイト・ブランシェットという役者の(おそらくはケイト・ブランシェット自身が自分のこれまでのキャリアを賭けた、自分の代表仕事を築く覚悟を決めてるのだろうと思わせるような)、その見事な身体表現として展開されることに、この作品がもつ意味のすべてがあるだろう。

彼女の身体によって、ある問題の是非とか、良し悪しとか、正誤とか、そういう答えではない、観る者も自分を安全圏には置いてもらえない、高い緊張を保った現在進行形の流れのようなものとして、それらは表現されている感じがする。客観的判断の不可能なのっぴきならなさこそ、この映画の作品としての強さだろう。

ただ中盤以降、彼女に聴こえはじめる様々な「幻聴」は(これらのもっと過激に突き詰めた表現が、アピチャッポンの「メモリア」だったよな…など思わせたが)、メトロノームとか叫び声とか怖かったし、夜眠れないことの辛さとかも、我が身に沁みるようで可哀そうに思ったけど、この幻想や幻聴まじりの虚実曖昧な中盤以降から、彼女が変調していく過程で映画自体のテンポが変わってくるということ、前半のゆったり感に比して、その変化にやや戸惑いをおぼえもしたし、この幻想・幻聴の表現が、彼女がだんだん精神的に追い詰められていき、内面がヤバくなっていくことの説明でもあるので、映画はあくまでも主人公の彼女を、彼女自身の主観的視点からしか表現してないとも言えて、ここからの解釈は皆さんに委ねます的な構えが、はっきりと出過ぎた感なきにしもあらずかもな、とも思った。

とにかくケイト・ブランシェットは魅力的だし、やってることの強引さや性急さはおくとしても、言ってることは、ちゃんとしてて正しい…ようにも思うし、そのような俳優の身体表現として、とても見応えがあるというのが、繰り返しになるがこの映画の美質だ。

この作品の登場人物のような人はどこにでもいるとか、このような人物が表舞台から姿を消さねばならないそんな時代の気分とか空気の方が間違ってるとか、色々なことが言えるし、もしかする彼女は、客観的に見た場合もっと酷いやつなのかもしれない。それはわからない。でもそういうことではなく、これはある人物が失脚するにいたるまでの顛末を描いた話で、そのことの是非ではなく、そのこと自体の味わいに浸るしかないとも言える。

とてもまっとうで、いい人に見えるし、芸術への素朴な信仰があって、ケイト・ブランシェットの味方につきたい人は多いだろう。でもそういうことではなく、物事が上手く行かず、地位も名誉も失って、五十歳を過ぎてから第二の人生を歩まねばならなくなった、元著名な才能に溢れた人物の姿として、それを見守るしかない、五十代ってこれだなあ、きついなあ、とか思いながら。

ケイト・ブランシェットは魅力的だけど、やはり若くはない。そして、やはり間違いなく「従来の男性」的でもある。この「カッコよさ」をどう捉えるのか。単にあたらしいヒーロー像として、その登場人物を見て楽しめばいいのか。

僕など、映画も終盤に差し掛かって、主人公の姿を見やりながら、なんだかんだ言ってもこの女性、身体的にはまだ健康で(あれだけ派手に転んでもすぐ回復したわけだし)、今のところ身体のどこも悪いところないんだから、それって救いじゃないだろうかと。これで病気になったら目も当てられないけど、まだまだ頑張れるじゃないかと、闘病生活を続けるよりよほどマシではないか…などと、そんなことを、まるで我が身をいたわるかのように考え続けていた。

最後のオチにはやられた。これはシャレが効いていて素晴らしいラストだった。

ちなみにこの話はフィクションで、指揮者としてこれほどの高い地位にまでのぼりつめた女性は実在しないらしい。