顔の前

Amazon Primeホン・サンス「あなたの顔の前に」(2021年)を一年ぶりに再見。やはり素晴らしかった。これはいったい何だったのかを、もはや考えたくなくて、これはもう、何の説明もなく、見たことそのままで良い。そのままにしておきたい。

たとえば映画で、ここに観たことのすべてが、誰かの夢だったのかもしれないと仮定したとき、それなら主人公とは何だろうか。誰かの夢の登場人物は、それを夢に見ている誰かの主観イメージの具現化であるなら、主人公に見える者は登場人物に過ぎず、夢を見ている誰かこそが、主人公かもしれない。しかし私がこの映画を観ている以上、画面に映っている彼女がこの映画の主人公だ。少なくともこの映画は、そのようにはじまる。

映画の主人公は、誰かに思われ、誰かに羨ましがられたり、誰かの欲望を掻き立てたりする。また、誰かに疎まれたり、誰かに夢見られたりすることも、あるかもしれない。

彼女は元女優で、その後は別の仕事をしながらこれまで生きてきた。彼女はアメリカで長く暮らしてきたけど、いまこうして、韓国に戻って来て、久しぶりで妹に会い、甥やその彼女に会い、甥からプレゼントを貰って嬉しさに小躍りし、かつて住んでいた住居の跡地を訪ね、そこに暮らしている小さな子の名前を聞いて、その子の身体を、両腕でだきしめる。

彼女は、彼女だけの秘密をかかえている。彼女は、彼女なりの長い人生経験の記憶をもち、もはや自分が年齢を重ねて、残された時間が、さほど長くないことを知っている。

彼女は時折、神様を思い浮かべるみたいに、あるいは自分に言い聞かせるかのように、瞑想して祈る。私の顔の前にあるもののすべてを見るとき、それは完成されていて、それ以上でもそれ以下でもなく、世界はそのままで信じがたいほど美しい。そのことに、ことある毎に感謝を捧げる。それはどこかスピノザの言説を思わせもする。

でもそんな彼女が、あの胡散臭い感じの映画監督から、かつての出演作での仕事を褒められ、いくつもの賛辞を並べられると、照れ笑いで誤魔化しながらも、思わずこみ上げてくる涙をおさえることができない。笑い泣きになって、酒杯が幾杯も重ねられて、しまいには泥酔して、果てはたどたどしいギター演奏が奏でられる。

胡散臭い映画監督の胡散臭さとは、しかし人なら誰もが持つ不可解さであり不透明さだ。彼女の告白を聞いている彼の表情が、何を示しているのか、彼女のギター演奏を聞いている彼の表情が、何を示しているのか、それはわからない。「もしかして、あなたは、私と寝たいのですか?」そう聞く彼女に「ええ」と応える彼の表情と言葉が、その後に続く口約束が、何を示しているのも。

映画の主人公である彼女は、そのようにして誰かに思われ、誰かに夢見られもするかもしれない。夢見ているのは誰か。彼女は眠っている妹が、いま見ている夢を知りたい。だから彼女はこの映画の最初と最後に、眠っている妹に向けてそれを訪ねる。この映画は、その問いかけにはさまれた形で構成されている。

映画として、いくつかのショットが繋げられているからと言って、それが何を説明するのでもない。それが、むしろ救いだ。あなたの顔の前にあるもの、それはある意味で、映画そのものでもある。

妹の見ている夢は何だったのか、それは明かされない。そして映画の主人公である彼女が、誰から何をどのように思われていたのかも、もちろんわからない。もちろん、彼女の夢を彼女自身が見ていたのかもしれないし、夢はもう醒めたのか未だかもわからない。

こうしていつまでも、夢は醒めない。そう思いたい。