活け締め

釣り人たちが釣った魚を新鮮なまま持ち帰るために「活け締め」をやってる様子を、動画で見ていた。生きている魚たちの「殺され方」を見ているのは、なかなかキツイものがある。胸の鼓動が早くなり、ため息が連続して漏れる。

「活け締め」について紹介されたページ(https://www.honda.co.jp/fishing/news/news-20191029/)を読む。エラの付け根の箇所をバチンと切って水の中で失血させる、あるいは頭部からワイヤーを通して脊髄を破壊する、いずれも魚がストレスや疲労を感じながら絶命するのを避けるためだ。

魚は暴れたりストレスを感じる状態が長く続くほど、身の中にあるATP(魚のエネルギー源で旨味の元にもなる成分)が消費されます。ATPが減少し“疲れた身”になってしまうと、人間が食べても不味いのです。
また、暴れて体をあちこちにぶつけると、身割れやうっ血も起こり、これらも身の美味しさを損なう要因になります。

魚の身体内成分の一部が、ATPと名付けられていて、それが「旨味の元にもなる」ことに、何か虚を突かれる感がある。妙な連想だけど、精神と物質の融合というか、何かが「受肉」した瞬間…という感じがある。

神経締めされて、のたうちながら苦しむ(ように見える)魚の姿と、人間のまったく易々と容赦なく作業を続けるその迷いの無い姿には、苦痛への想像、悲惨さとか残酷さから受ける怯えや恐怖や悲しみの感情が、どこかで突き抜けてしまって、妙に明るくてさっぱりとした、爽快な殺戮のあそびとでも言いたくなるような境地が、垣間見える気もする。

血にまみれて、苦痛に呻いた果てに残った肉体は美味しくない、即死してすみやかに血を抜かれた肉体こそ美味しい。これを厳粛さと言わずして何と言おうか。

身体を破壊されて、即死するのもさることながら、あるいは苦痛をまともに感じつつ死ぬことさえ、じつはさほど辛いことではないんじゃなかろうかとも思う。肉体的苦痛は想像上ではじめて強い恐怖と不安を醸成させるが、でもじっさいに肉体的苦痛を知覚しているとき、その苦痛は苦痛そのもので、それ以外ではないから。

もちろん我々の恐怖と不安にも何らかのアルファベット3文字が与えられ、その成分が、旨味に影響をおよぼすこともあるだろう。