潮香

魚介類の美味しさとは、つまるところ潮の美味しさではないか。海水そのものは、塩辛くてとても飲めたものではないが、海中で生きていた生物たちが体内にたくわえた独特の香りと旨味はこのうえないものがある。それは海がもたらしてくれる滋養そのものだ。

鯛のアラを煮込んで取れる出汁の旨味はすばらしい。スーパーでパック詰めになって安く売っている、あれを煮込んでつくったスープに、自分は自分で作ったものの美味しさに、いつも心から驚いている。

但し魚のアラ、出汁を取ったあとでアラを捨ててしまう人もこの世には存在するのだろうけど、自分には信じがたい。あれを徹底的に食べ尽くすことこそが、アラを使う醍醐味だとさえ思っている。とはいえこれを食するに要する根気と集中力、それにその姿を他人に見せるのが憚られるような食する際の行儀の悪さは、いかんともしがたい。よく蟹を食べるとき人は無言になりそれを喰う事にのみ集中するなどと云われるが、魚のアラを喰うときのそれは蟹の比ではないと思う。例えるならば、小石や砂と柔らかい肉とが混ざり合ったものをそのまま口に入れて、噛んだり摺ったり指を使ったりして、必死になって口の中でより分けたのち、小石や砂だけを口外に吐き出すような所作に近い。鯛の潮汁などを作った自分は、夢中になってこのような振る舞いを続けていて、その餓鬼のような空腹の野良犬のようなあさましい姿は、正直なところ妻にさえ見せるのがはばかられるほどである。フランス料理だってたまには手づかみで食べるような料理もあるし、そういうのは盛大に遠慮なく手で喰えば良いのだが、魚のアラを喰うというのはそのレベルを遥かに超えた、まさに自分の動物性、獣性、野蛮、本能の奴隷である本質を、まざまざと自覚させられるような行為である。

しかし硬い骨や殻につつまれたそれら魚介類たちのもたらす滋味は筆舌に尽くしがたい幸福感をあたえてくれる。肉をうしない最終的に骨だけになる生き物の、最期の水分一滴までをも美味しいことが海水の恵みであり、そのように食べ尽くされてしまうことで食う方も食われる方もある種の浄化を得ているのではないか。それにひきかえ人間は火葬されてしまうわけで、残された骨の味気無さは魚介類とはずいぶん違うものだ。仮にあれを口に入れたとしても、おそらく何も美味しくないだろう。