若林奮にしろカサヴェテスにしろ、頭おかしいな、こんなワケのわからん人たちも生きているのが世の中なのだなと、今さらのように思う。(どちらも故人だが。) 

若林奮「森のはずれ」は、三十年ぶりに再制作されたものである。展覧会場では、おそらく何日にも渡っただろう作業過程の映像が早回しで上映されていたのだけど、まるで戸建て住宅の建設現場のような、そこに関わってる人のめまぐるしいスピードで動いては消えていく人数や動きを見ていると、あまりの途方もなさに気が遠くなりそうだ。このプロジェクトに掛かってる経費はいったいどこから生まれてきたのかと思う。ある計画に予算が付けられて、役割ごとにタスクが分担されて、管理の下でいっせいに取り掛かって、それらは完成するのだろうけど、それは美術作品もまたそうなのだ。そんな当たり前のことを、いまさらながら、すごいことだと思う。

作品の一部は、経年劣化による損傷も見られ、それに対しては現在において最善と思われる解釈にもとづいて、修復がなされる。これらの処置も含めて、すべては世の中に存在する価値のある取り組みであり、美術作品の保存と展示は、社会活動の一環でもある。

(美術館に着いて、受付で思わず「一般二人です」と申し出てしまって「チケットとかは無いです、無料でご覧いただけます」と言われてしまった。。マジか、無料なのか…と思う。)

若林奮とカサヴェテス、その頭のなかにある、あくまでも個人的な、しかし怪物的と言っても良い広がりの可能性をもつ観念というかイメージ。それを形にするための活動を彼らは継続した。彼らに与えられた条件のもと、与えられた時間を生きた。それは間違いない。

この個人性が、いつしか広がりを帯びて、価値あるものとされ、社会活動の一環として維持されること。その社会活動性というものを、まるでゲシュタルト崩壊したイメージみたいに、異様に不思議な営みに感じてしまう。映画とか美術という外殻がそれを可能にしてくれるというのはわかっているつもりだが、それにしても、と。