下高井戸シネマで、ジョン・カサヴェテス「ハズバンズ」(1970年)を観た。おどろき、あきれた。とはいえ、たしかにこれぞカサヴェテスなのだった。カサヴェテスの作品をおそらく十年ぶりくらいに見た。

ウィキペディアで本作のストーリーを見ると、こう書かれている。【すでに家庭という守るものを持っている3人の中年男性が、急死した親友の葬儀後、家族や仕事を放り出し、人生を見つめなおす型破りで奇妙な放浪を繰り返す。シンプルながらも中年という世代に向けて放たれた悲痛な風刺を込めて描かれた社会派のヒューマンドラマ。】

いや、そうじゃない、違うよ、そういうものではないよ、と言いたい。これは到底そんなものではない。

大昔からの旧友と久しぶりに会ったという話を、数日前ここに書いた。子供時代から知っていて今や壮年となった我々のような部類の人間を描いた映画にまだ出会ったことはないとも書いた気がするが、そんな甘く浅はかなことを書くから、こうしていきなり「報復」されたのではないか、何か見えない大きな悪意がこの映画を自分にめぐり合わせたのではないか…そんな勘ぐりさえしたくなる。

とにかく酷くて、頑なで、徹底的で、いっさいの共有や再帰を拒む、最強にタチの悪いものを見せられたという感じだ。

しかし何かと言えば、何という事もないのだ。簡素に言うなら、中年のおっさんたちがひたすら誰かに、ウザがらみし続けてる映画である。

しかしその執拗さ、それをぶっきらぼうに捉えるカメラの位置と光の感じ、同じ言葉、同じ歌、同じやり取りの飽くことなき繰り返しが続くのをじっと見ていると、これは見ているのではないな、これは時間だな、ただ待ってるだけだな、この居心地の悪さのなかに頭まで潜ってるだけだな、しかしなぜ一体…という元々の疑問がわき上がってくるのだ。

ビールを飲んで、傍らの女性にひたすら歌うことを強制する。女性はとくに拒否の素振りも見せずに言われた通りに歌う。ダメだダメだとダメ出しして、また歌わせる。女性また歌う。ダメだダメだとなる。暗闇の居酒屋で、誰かの横顔と、注がれるビールと、呆然とその時間に身を晒している女性の複雑な表情が浮かび上がっている。なんなのだこれはと思う。

嘔吐する音、流れる水液の音が響く。トイレにしゃがみ込んで、延々と嘔吐する。嘔吐する者の喉や口の音、匂い、ムカムカする体内、相手が放つ匂い、トイレの匂い、汚れた床に座り込んで耐える。その様子を見ているのではない。耳元での、目と鼻の先での出来事だ。ゲロを吐く音。…バットホール・サーファーズかよ…と思う。

タバコを深々と喫う。マッチをもらって、火をつけて、煙が広がり、吸い込み、吐き出す。笑えると言えばその通り。もちろん、笑おうと思えば、どこでも笑えるのだ。奥さんもその母親も殴るなんて、頭おかしいだろ(笑)。あと歯医者の診察台の女、完全に狂ってるだろ(笑)。しかし半分以上埋まっていただろう観客席は静まりかえっていた。笑えたら少しは、楽になれる気もするのだが…。あるいはたぶん、笑ってしまうことで何か取り逃す感じがするからかもしれないけど…。

ロンドンに移ってからも相変わらずな、しかし逆にこのダラダラした、ダルダルな、けじめの無さにすべてを賭けたようなテンションがひたすら続くので、もはやそこに威厳というか、得体のしれぬ思いが沸いてくるところもある。背の高い女に凄まじいまでのウザさで絡み続けるカサヴェテス、中国女にブチ切れて騒ぐピーター・フォーク…。ロンドンの朝は土砂降りの豪雨。誰もが雨にずぶ濡れで、もう取り返しのつかない、この不様さ、この痛ましさ、そしてかすかな懐かしさに似た何か。雨の味までが唇の端に感じられるかのような…。

(昨今の世の中において、もしこの作品の内容が、あらためて「知れて」しまったら、それはそれで、大変なことになるのかな、こりゃさすがにヤバいよな…といった懸念が、つい頭に思い浮かぶ程度には、自分も昨今の風潮に「感化」されているのだなと思った。)