明日観る予定の能舞台「葵上」について、簡単なガイドブックなどを確認する。しかし自分もいい年齢して、源氏物語さえロクに知らないのは、これは由々しき問題であろうとは思うが、知らないものは知らないのだから、仕方がない。

光源氏のかつての恋人である六条御息所が、正妻の葵上への嫉妬から生霊となって病身の葵上にとりついて現れるという話が「葵上」だが、「鸚鵡小町」における小野小町もそうだけど、能(というか太古のお話)は、なぜかくも女性の加齢や老化を執拗にテーマとするのか。世の儚さや無常を示すもっとも扱いやすい題材だということだろうか。いや、扱いやすいのではなくて、それこそがフィクションの題材とすべき火急のテーマだったということか。

「ほんとうのこと」への強い執着が、諦念とか悟りとかに結びつく。そんな境地に至った人物がいたとして、その人は「ウソも本当もどっちでもいい」とは思ってないだろう。というか「ウソも本当もどっちでもいい」という考え方こそが「ほんとう」だと定義して、それを拠り所にしているのだろう。

能舞台「葵上」では、祈祷によって六条御息所の生霊が成仏する結末のようだ。そこには善悪や因果や教訓はなく、ただ過程だけがある。

人はともかく芸事であれば、それが自らの形式を支えるための拠り所とするのは、やはり「ほんとう」らしさなのであるから、嫉妬や自尊心の無念、後悔、心残りの、まるで火が燃え広がってから鎮火するまでをつぶさに見つめるような視線こそが、フィクションのほんとうらしさを支えるということなのか。