ヤンヤン夏の思い出


ヤンヤン夏の思い出」を久々にDVDで観る。主人公NJ、その娘のティンティン、息子ヤンヤン、妻、叔父とその嫁と元彼女、NJの会社の同僚、昔の恋人、ゲームクリエイター、隣家で、娘ティンティンの友人、その母、英語の先生、マンション下に立ってる彼氏、危篤状態のお婆さん…。


イッセー尾形演じるゲームクリエイターを観ていて、ああ昔、こういう感じだったかもしれない、、と懐かしく思った。90年代後半くらい、ゲームクリエイターと呼ばれるような人々がこんな雰囲気をまとって存在していても、たしかにおかしくはなかったかもしれない。昔なら文学者や哲学者だったはずの人が、90年代ならゲームクリエイターだったみたいな、ほとんど夢想に近い話をしながら、ビジネスの最前線で巨額を動かすみたいな。


NJの会社は業績が低迷していて、新たな策として日本の著名なクリエイターの太田にコンタクトを取る。彼と共同のビジネスを興し、彼の名前がもつブランド力を利用したい。しかし太田が会議の場で提示した構想を聞いて、そのリスクに会社側はひるむ。会社としては、太田の名前だけ使えればよくて、できるだけ保守的で安全なビジネスをしたい。太田との契約金は高い。それよりも小田という、太田のコピーみたいなクリエイターがいるから、そちらと契約しても会社としては充分ではないか、返事を引き延ばしたい会社はNJに太田を接待して時間を稼げと言う。


NJは一人、太田の提案を気に入って、彼そのものへの不思議な興味をもつ。二人で会食、太田は言う。昨年、我々の会社は赤字を出した。なぜなら同じことをしたからです。たしかに新しいことに挑戦するのは怖い。しかし、それが大切なのです。でも、いいのです。もしあなたの会社がOKと言ったら、そのときは乾杯しましょう。そしてこう続ける。私たちはなぜ、新しいものをおそれるのでしょう。毎日、新しい朝はくるのに。…結局ゲームクリエイターは、このあとNJの不思議な友人みたいになる。ゲームクリエイターだなんて。ああ、なつかしい。当たるも当たらぬも彼に掛かっている。でもそんなことはどうでもいい。彼の家庭は昔貧乏だった。しかし音楽が人生の喜びを教えてくれた。それはある意味、まったくの無力だ。まったくの無力であるということ。


NJは寡黙だが、いいやつだ。一人と一人として、太田と反応しあう。


NJの義理の弟の彼は、ほんとうにどうしようもないやつで、豪邸で贅沢な暮らしをして、美人の奥さんとできちゃった婚をして、しかし前の彼女とも切れてなくて、金は無駄な投資で消えてしまうし、貸した金は戻ってこない、今後の未来に主体的な考えがあるわけでもなくて、姉もそうだがすべては運任せの神頼みだ。そして苦しんだり絶望して自殺未遂したりする。そんな彼も生まれたばかりの自分の子をみて喜ぶ。ビデオカメラを回して、ずっと喜んでいる。そして自分で撮った映像を奥さんと見ながら、喜び、やがて泣きはじめる。そんなにうれしいの?と聞かれて、いや、なんだかかわいそうで、と答える。この言葉が、映画の最後までずっと心に残っていた。