久しぶりに蕎麦屋へ行った。ただし自分は鮨もそうだけど蕎麦も、美味しいとかそうでもないとか、その違いがあまりよくわからない。ただわからないなりに、わざわざ蕎麦屋へ行って何を、蕎麦だけに可能な、何らかの体験を得たいがために蕎麦を食べて、味わうことができたと思って、もしかすると気のせいかもしれないが、しかし気のせいだろうと済ませることでもない。そのように、言葉で説明しがたいものへの期待をこめて蕎麦屋へ行く。

鮨屋蕎麦屋も、まず店に入ってから店を出るまでの時間の推移を、自分なりに意識したくなるところがある。何をしに来て何を済ませて帰るのかを、自分なりに説明をつけたいという感じがある。

鮨も蕎麦も、つまりは香り主体の料理で、鼻に抜けていくものがまず枠組みを作るのだが、香りとは瞬時に感じ取るもので、感じ取ろうとする自分が前に出てしまうとかえってわからなくなる。鼻を近づけるのではなくて、そんな器官の存在を忘れてしまう必要がある。行動や所作の傍らで、気配のような、半幻覚のようなものとして、それを事後的に認める。

せいろと薬味と蕎麦出汁が並ぶと、とにかく一刻も早く食べ終われと蕎麦がこちらを見上げるかのようなのだが、薬味とあわせている時点で、これは魚を食べるのと、型は一緒じゃないかと思う。

ひとまとまりに盛られた蕎麦を、そのはじめから最後までの工程をあらかじめイメージし、実績を数えるようにして何度かにわけてたぐり、おしまいまでたどりつく。食べ終わったと思う。この分量感と一連の出来事の収束感を思い返している。