だいたい、牛肉か生牡蠣のことを思い浮かべている。そういうときが一番多い。牛肉はオーブンでじっくりと熱を入れて、ナイフで切ると中がしっかりと紅い。あるいは、よくしまって熟成した良い香りのするローストビーフ焼肉屋でちょっと高いけど分厚いランプやリブロースから始めて、炭火の上でさっと火をあててすぐに上げて、塩と山葵だけで食べるとか。牛肉とはいったい何か。血の味、突き上げてくるような芳香。羊もいいけど、やはり牛肉だ、というか、今は牛肉がいい。羊でもある程度巨大な肉ならいいけど。そうだな、羊が食べたくなってきた。生牡蠣はもう、単に食べさせてくれる店があればそこで食べる。牡蠣とレモンだけあれば、何もいらない。牡蠣の味ってほんとうに不思議だ。いったいこれが、美味いのかどうかも、よくわからない。しかし、それを食べなければいけない、口の中から食道を伝って胃の中にまで、あの鉱物のような香りで満たさなければならないと常に思っている。生牡蠣はオイスターバーのようなところだと、レモンを絞りかけただけでごくっと飲み干してしまうような食べ方ばかりになるが、イタリアンの店ならそれらしくオリーブオイルと繊細な味わいのトマトソースにディルが添えられていたりして、イタリアンというのは、本当に良くも悪くも、いつも大体同じことばかりなのだが、それが好きだから行く。フレンチの店で生牡蠣を食べたことがないから、春になる前に機会があれば電話で聞いてみる。魚貝類は香りがまず良くて、それをどのように演出するのかという部分に醍醐味がある。ワインは白ならさっぱりしたもので赤ならピノ系のもので大体好みは決まってきたので、それは店にあるものでだいたいなんでも良い。魚は、これもオーブンで、ハーブの香りにつつまれたようなやつがいいだろう。野菜も、しっかりと味の濃いものは唸るほど美味いことがあって、これもいったい、美味いというのはどういうことなのか?という根本的な疑問が頭を駆け巡ってしまうくらいの、そのくらいのことを思わせるものはある。メシを食うというのは、基本的にものすごく受身の行為だといつも思う。自分がそれを食べている、と見せかけて、じつは違う。自分が、食べ物に食べられているのだ。というか、自分の一部が食べたものになって行ってしまう。自分が消えてしまうのだ。おそらく、食べれば食べるほどそうだ。