小説的思考塾 vol.13〈保坂和志伊藤彰彦:対話篇〉の配信映像を見ていた。80年代のサラリーマンは誰もがそれほど真面目には働いてなかったのに、金にはなってた。それが90年代半ばから、誰もがそれなりに真面目に働くようになったのに、金にならなくなった。それは何かおかしい、何か違う力学が働いてるんじゃないか…という話があった。

もちろん様々な異論の余地が想像されはするものの、少なくとも生産性だのKPIだのであらゆる事象をひたすら微分化して自己満足する今どきの風潮が、どう考えても自らの病気に淫してるだけなのは明白だと自分も思う。適当にやってても妙な病気じゃなかった昔のほうが、おのずと上手くいってた側面はあるのだろう。

自分はアウトローであると、そんな自覚をもって生きても良いのは、わかりやすくアウトロー生活を送っている人だけではない。どんな生活だろうがどんな肩書だろうが、誰もがそう思って良いはずだし、そう思うべきであるのに、現状そう思ってる人がこの世に少なすぎるのは、やはり問題だと思う。…ということを何よりも自分に言い聞かせなければ。

時間が経つというのはそういうことで当然のことかもしれないが、私たちはとにかくどんどん均質化する。世間で中年や老人がやたら怒りっぽくて周りに迷惑をかけるケースが度々あるのは、彼らは彼らなりに、均質化に抗ってるんじゃないかなどと思うこともある。でも駅や路上で感情的になるのは、アウトローとは真逆の態度だ。アウトローは決してそういうことはしない。アウトローは大人しいわけでもないしキレやすいわけでもない。

アウトローは、自分が異形であることをどこかに自覚していて、それを秘めて生きている。その秘密をそっとしたまま墓場まで持っていこうと思ってる。それは私に掛かる重しで、私にとりついた呪いだが、それこそが私を私たらしめていて、それなしで私はありえない。