久しぶりにお鮨屋へ行った。べつに高級店ではないけど、お鮨屋ならではの緊張感がうすく張っていて、お鮨は、そんな店内の空気と香りを吸い込むところから、カウンターの木の香りと、酢や生姜などの香りが混ざり合うところから、すでにはじまっていて、いまさらながら、鮨屋とはやはり独特だなと思う。たとえば外国人観光客がこの店に来ても、自分と同じようには感じないだろうし、逆に自分が観光客として、外国のどこかの(少なくとも観光客向けではない)郷土料理などのお店を訪れても、現地の人がその店に感じるものと同等のものは得られないはずだ。その違いとは過去の記憶による。

鮨をことのほか好むわけでもなく、鮨の好みも味わいもよくわからない自分のような者でさえ、鮨屋に入ればある程度は今現在の経験と過去の記憶とをすり合わせて、その混交具合を楽しんでいる。それはかつて知っていた場所での、かつて知っていた香りである。鮨屋に来て、これからどんな得体の知れぬものを食べることになるのか不明ということは絶対にない。むしろほぼわかっている。期待が最大枠にまで広がっていて、そこに実際の味覚が格納されていくだけである。自分は食に関しては、よろこびはそれで良いのだ。

ただし、たとえば南仏とかイタリアとか地中海沿岸とか、他にも色々な各国の魚介料理へのあこがれはある。仮にそれを体験することが出来たとしても、まさに観光客としてしか味わえないはずの料理だろうが、観光客として、現地の人々の過去の記憶にシンクロしたいというか、それを食することで、仮定された現地人である彼らの子供時代に嗅いだ匂いや空気の味わいを、想像してみたいとは思う。

でもそういう想像の遊びというか仮経験なら、とりあえず映画が手っ取り早いということになる。