小林信彦の小説を読んでいて一貫して感じさせられるのは、世間や他人に対する強い猜疑心というか、他人を容易には信じない心持ちのようなもので、これは所謂「業界系」の小説においても、自分のルーツを探る小説においても同じで、とにかく作者とおぼしき主人公はひたすらワーカホリックに仕事をしており、仕事が絶えることへの不安が強くて、それはそうせずにはいられないような経済事情があったのだろうけど、それにしてもかなりの心配症であることはたしかだ。それを友人らに指摘され、笑われて、お前は東京下町出身の人間らしくないとまで言われて、そんな自分の性格や考え方は祖先のいったい誰から受け継いだ血なのだろうかと考える。それが「兩國橋」の物語が紡がれるきっかけとして冒頭に置かれている。
自分が今この局面でこのように考え、選択するのは、あれは親に似てるからだとか、母親の血のせいだとか、そういう話はいくらでもあって、それこそわれ思うがゆえにわれ在りな、自分の主観というものが、先天的に何かによってあらかじめ方向づけられているかもしれない、世界と自分のどちらが優位であるかを問うことは出来ないが、少なくとも何かの要素が事前に自分(=世界)を規定しており、そのフレームを「地」としてしか自分(=世界)は存在しないし、認識もできない、そうだとしたら…。
と、そこまで大げさに考えないまでも、人が親や祖先について知りたいと思うことは、生きてきた/生きる自分が知るべき条件として、そのような傾向というか属性が、あらかじめ横たわっているように思われるからで、それをいっさい気にせず生きていけるとしたらそれは幸福かもしれないが、やはりそれは自分なりに知っておきたい、腑に落としておきたい話ではあるだろう。
家というか、親というか、血というのは困ったもので、気にするならいくらでも気になるだろうけど、親がいない、親を知らないというのも、それはそれで、やはり生きていく上で、自分自身をまた別のやりかたで規定し、縛り付け、何らかの考えに手を弄りたくなるものだろう。
自分がオリジナルではなく、何かの変奏であり、トラック二周目に入ったよくわからない徒競走の途中であり、誰もがたどりつくはずの最期を、自分もやがて迎える、その想像はある絶望を感じさせもし、その一方で安堵をもたらしもするだろう。
福祉制度を利用して、各種行政サービスを適宜利用して、区民や市民の権利を行使しながら、流浪民として死ぬまで生きながら、この今と、この私が、これ一回の特権的なものではない、それを易々と納得することはできない。にもかかわらず、何者かの気配や采配が、この私に影響しているのを、否定しきることもまた出来ない。