図書館で借りた小林信彦の小説『家の旗』より「決壊」を読む。主人公は例によってやたらとペシミスティックで、疑心暗鬼で、誰もを容易には信用しない、ものごとを悲観的にしか見ない。他の登場人物にも信頼できる人物はいない。妻をのぞいては。

主人公にとって、妻だけがこの世で盤石の信頼をおける唯一の相手で、しかしそのわりには、彼は会社をクビになった日の帰宅時も、家の購入を検討するときも、家のなかにあった生物の死骸をこっそり捨てるときも、海辺のパラソルの下の妻と娘を見下すときも、いつも妻の反応を異様に気にして、妻を失望させたり怖がらせたり悲しませたりすることに怯えて、おそるおそる彼女に向かうと、彼女の方は予想をこえてあっけらかんとしてたり、まるで動じなかったり、普段通りだったりして、つねに彼の予想を裏切る。

それでも彼は自分の妻に苦労をかけさせている(と彼は思ってる)こと、自分と結婚さえしなければ妻はまた違った人生を生きていただろうと想像し、そんな彼女を不憫に思う。つまり主人公は妻を思いやっていて優しい人である以上に、自分自身をいちばん慮っている。自分が傷つくことを極度に恐れるタイプの人物である。たぶん彼にとって妻は、自分を支えてくれている、掛け値無く、かけがえのない、自分には勿体ないような、何にも増して尊重すべき対象なのだろう。しかしそれを、決壊というテーマ(見解あるいは絶望あるいは願望)を利用して、韜晦を重ねた土台の上にしか、言葉にしたものを乗せてあげられない。それはまあ、誰でもある程度はそうだし、わかると言えばわかる。

タイトルが示す通り、自分らの拠って立つ基盤なるものは一切存在しない。すべては決壊し瓦解し、泥沼しか残らないという認識をはっきりさせるために描かれたような小説だ。それが行楽シーズンの海辺の混雑であり、夏になると気が狂ったように海辺に集まってきては大騒ぎする若者の集団であり、排気ガスで枯れ朽ちていく松林であり、油に染まる海であり、放火で消失する葉山御用邸であり、弱まった地盤が崩れて決壊寸前となる自宅だ。

このような小説を書くということは、その状況への批判とか告発ではなくて、高度経済成長時代の日本を、私はこのように感じ、苦虫を噛み潰したような顔で過ごしました…という報告でもなくて、小説を書くとはどうしてもその時間そのものを生きることだから、如何に劣悪なテーマであっても、それ自体に拘泥しそれ(それを書くこと/それを生きたこと)を愉しむことに近い。