Netflixデビッド・フィンチャー「ザ・キラー」(2023年)を観る。殺し屋という稼業の登場人物だからこそ、その毎日はつねに「世をしのぶ仮の姿」である。仕事をするための道具は、人が世間で生きていくために必要なものとさほど違わない。クレジットカード、スマートフォン、腕時計型ウェアラブルバイスを所持し、自動車を運転し、航空機のチケットを買ってゲートをくぐる。もちろんそれらの名義やアカウントはその場限りのもので、要件が済めばただちに廃棄されスマホは踏みつぶされて、重火器もばらばらにされ街中のゴミ箱だの清掃車だのに放り込まれる。まるでこの世に生活する我々の日々が数時間だけ切り取られて暫定的に挿入されたかのように、殺人者はいっときだけその場に生きている。

物語の発端は、マイケル・ファスベンダー演じる殺し屋が、ある人物の狙撃に失敗したことからはじまる。彼はその場から逃走するが失敗に対する報復というか懲罰としてドミニカの邸宅が何者かに襲われ、彼の奥さんが重症を負う。彼は奥さんをそのような目に合わせたすべての関係者を探し出し「復讐」するために行動を起こす。

マイケル・ファスベンダーは始終、ぶつぶつと一人語り的な内省を止めることがない。…それは性癖のようでもあり、おまじないのようでもあり、日記のようでもあり、読者を意識もせず毎日書き連ねられるブログ記事のようでもあるかもしれない。それは彼にとっての仕事を遂行する上でのメソッドであり心構えでありルールであり、それをひたすら自分自身に言い聞かせて、ウェアラブルバイスに表示された自らの脈拍数を確認し、彼は彼の身体をできるだけ安定した状態に維持しつつ自らの行動を制御させようと努力している。そして、そんな彼が愛好し、イヤホンや車中でことあるごとに再生するのが、なんと"ザ・スミス"の楽曲群なのだ。

殺し屋という稼業を持続させるために彼が必要とするものが、各地のレンタルトランクルームに常備した生活必需品および道具類で、超巨大ビルの認証ゲートを突破するために、運転手だの関係者だのの所持品を易々と盗み出し、必要に応じてカードロック解除可能な複製を(なんと)アマゾンからでも注文して入手し、現代の形骸化したセキュリティなど屁でもないとばかりに、ばかばかしくて笑いたくなるくらい簡単に黒幕的人物の目の前にまで彼は接近する。そのようなことは可能であり、その気になれば、ちょっと知恵を巡らせるならば「専門職」の誰もが易々と可能であると言わんばかりだ。

こうして彼は、いちばん抑止すべき人物に効果的な脅しを与えたうえで自宅へ戻ることになるだろう。そんな彼を支え、彼のモチベーションを鼓舞するのは"ザ・スミス"の旋律である。おそらく彼は"ザ・スミス"を良いとも悪いとも思ってない。その音を聴いているのかどうかさえ怪しい。しかし"ザ・スミス"がイヤホンを通して鳴り響くなか、彼の生活を支えるために彼は彼の仕事に集中しようとする。この映画における主人公の、そんな自己集中への向かい方は、さすがにこれまでの「殺し屋」映画の主人公には無かったかもしれない。それにしても殺し屋に"ザ・スミス"の取り合わせでは、まるで悪い冗談のようだし、。言い換えれば、この噛み合わなさこそがいかにもあるあるな事態とも言えて、こうして現実はいつでも悪い冗談のような、ということでもある。